column
i-pod 〈4〉 猿田博士
猿田博士の実験室
iPadをメディアシミュレーションとして使っている。
欲望のままにi-podを使ったらどうなるのか、というシミュレーション。
その時の欲望というのは、時代のとか、今のとか
いう感じ。
欲望自体もシミュレーションする。
iPadを買った。iPadの魅力のままに使うとどんなになるのか。たとえばコンテンツをたくさん入れて、外で読みたくなるとか…。そのときのコンテンツは小説なのかアニメなのか映画なのか、漫画なのか。マンガなのか。
iPadをもっていることで、今までもっていなかった欲動が起きるとしたら…
映画を見たり、本を読んだり、本屋に行ったりという欲動は、今や、別のトリガーによって起きることが多い。本が読みたいから本を読むのでもなく、ちょっと脇にある何かが行動を引っ張るのだ。そういう風になってしまっている。
もちろんボクも。
付録が欲しいから雑誌を買う。そんな欲動ではない気がする。昔は…。ダイレクトだった。『少年』や『冒険王』の付録はホントに欲しいものだった。100万人がもつ付録って、それをもって歩くって…。
付録が目的なんでしょ? って聞くと、必ず雑誌も可愛い特集しているからって答える。少しくらい高くても安全で美味しいものが欲しいって答えるのと同じ。アンケートは、欲動を真っすぐに反映していない。もちろん付録ダイレクトに向っている訳でもない。
何でヒットするのか、ヒットしているのか。という現象の分析。
ユニクロが何故売れるのか? みんなおんなじものが好きなんだ。日本は世界最大の共産国だから?…。で、突然、今年、売れ行きが止まったのは?
iPadはメディアだからユニクロや雑誌の付録以上に気にかかる。
どういうふうに変化が起きるのか。
10年ほど前、畠山直哉がフィルムがなくなる日というワークショップを行ったときにたちあったことがある。その時、思った。写真家が困るほどには、フィルムはなくならないだろうと。
でもなくなった。
ペヨトル工房を解散する2年前、津野海太郎と「本が無くなる日」という対談をした。心の奥底ではまさかねと思いながら。自分は残れると思っていた。
生意気だけれど。
i-podがでて、今、出版関係者はどう受け止めているだろうか。
はっきりは見えてこない。
でも何かをしないと、まずいという予感はする。
何かアクションをして方向性が止められるかどうかは分らないが、
話しは飛ぶが…昔、野田秀樹が、批評家はいらない、一人のミーハーがいれば良いということを朝日ジャーナルで書いた。
朝日新聞のジャーナリストはそれに従った。ずっと野田秀樹のきちっとした批評は書かれていない。新聞は野田を時代の旗手として褒め続けた。
野田秀樹は今、きちっとした批評のなくなった現状に少し苦しんでいる。ネットで書かれる風評が評価を決める、こんな馬鹿なことはないと、芸術監督就任にあたって声を大にして訴えた。
野田さん、それはあなたが始めたことです。
でも、それに対してアンチを言わなかった、周辺がもっと悪いんですけどね…。
野田秀樹の演劇の内容が問題ではなく、野田秀樹の演劇的戦略が問題だった。
何かを言うことで、変えられることもあるかもしれない。
そう思う。
さて、予測と欲望。
iPadは、2バイト文化圏でない日本では、小説を読むリーダーとしてでなくマンガを一気読みするリーダーとして機能するかもしれない。それが最初の印象だ。
iPadで何を読みたいか、マンガだとしても。
ノイズの情報も入ってきて、それに影響をされながら、読んでいく。
たとえば、蜷川幸雄演出の『ガラスの仮面』を見たら、ちょっと読みたくなってネットで買って一気にダウンロードする。で、読む。そんなこと…。
先ず、最初が『二十世紀少年』そして引きついで『PLUTO』。そこから『鉄腕アトム』へと読んでいって…とやっていたら、
8月20日からパラボリカ・bisで展覧会をする[未来のイヴ - 機械仕掛けの幸運 - Sabotage展]のテーマが猿田博士だと…。
手塚治虫『火の鳥』をダウンロード。
人形ができる前、ロボットができる前、人は人間を作ることを妄想した。産業革命で機械が一気に発達した機運も合わさって、機械で人間が、機械と人が一緒になった生物が、…創造できると、思ったのだ。
そこに今、興味が帰りつつある。
予感。
だけど。
update2010/08/16
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蝶はあなたの
紋白蝶がふらふらと
地下鉄の中を舞っている。
乗客はみななんとなく心配げに見ている。
誰か、乱暴者が来て殺したりしないだろうかと。
うまく外に出れば良いのに
みんな目がそう思っている。
蝶は僕の靴の上に止まって動かなくなった。
昔、百軒店の
江戸時代に墓地のあった
その上に建てたマンションで
仕事をしていたことがあった
真夏の暑い日に揚羽蝶がブラインドに引っかかって
それから魔に取り憑かれる日が続いたことがあった。
もちろん魔に取り憑かれたのは僕ではなくて同僚だったが。
同僚は仕事を休んで関ヶ原の寺院に籠もってしまった。
蝶には死者の匂いがする。誰だか確かめないと…と言っていた。
僕の靴の上の蝶は
それっきり羽ばたくことを止めてしまった。
今日は、最初の真夏日。
猛暑が東京を襲っていた。
亡くなったのは
誰?
update2010/07/19
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鬼っ子が新宿の虚空に舞う
林美登利+清水真理
マルイワンの一階にある『カイジューブルー』というお店のショーウィンドウに企画を頼まれて、一も二もなく人形を展示することにした。清水真理さんと林美登利さんの人形。林さんは少し前にパラボリカ・bisで展示をしている。
可愛い鬼っ子が宙に舞った。これから一ヶ月、新宿の魔を一身に集めて『カイジューブルー』は、パワースポットになるだろう。
update2010/07/16
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iPad〈3〉 F1
ようやくiPadがとどいたので借りていたiPadを返して
さぁアプリは何をいれようか。
F1かなぁ。
リアルタイムで全車の位置が分るしラップチャートも出る。
週末はiPadF1だ。
ベッテルは、ウエバーの呪縛から逃れられるだろうか。
何か特別なものがない限り、今のベッテルは、予選でもレースでもウエバーを越えられない。
勝利ってすごいものだな。ウエバーが一変したもの。
ロズベルグに勝てない
シューマッハが自分用のマシンを作らせて(あるいは車体を入れ換えさせて
ロズベルグに勝としてまぁ部分的に成功したが
ベッテルにそんな手はないしな…。
ロス・ブラウンとしてはそれでもロズベルグはこなすと思っていたんだろうけど
ちょっと時間がかかっている。
でももう車にも慣れてこなしてくるだろう。
さて楽しみだ。
update2010/07/13
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iPad〈2〉 よげんのしょ
+
ともだちの正体は最後のコマまで謎のまま。そこまでにともだちの正体を予感させる伏線もない。『二十世紀少年』が探偵私小説ならまさにかなりのルール違反だ。でも『二十世紀少年』は、ともだちが誰であるかという謎解きの物語ではない。
少年の夢がどうなってしまったかの顛末記だろうし、しかも描かれているのは、記憶がずれたから、今、こんなことになってしまっているという忸怩たる思いだ。謎の主導権を作家が握っていてもしかたがない。ラストに読者のみなさんと駆け抜けた科学で冒険な日々は永遠に…というメッセージがあるけれど、そこに引っかかってはいけない。
少年の夢はかなわないもの。夢は、記憶の中で擦れていって都合の良いものに変わる。あるいは不気味なものに成長する。そして昔、俺もやったもんだと不良を自負するオヤジたちは、夢を捏造する。よげんしょを書き換える。
意識されていない捏造もある。夢や思い出が記憶の中でどうずれてしまっているか…その記憶追尾の軌跡が『二十世紀少年』だ。
最後にケンジが、みなの記憶を修正して謝ったから、コピーのコピーのよげんのしょの最後が実行されなかったのだ。でないとさらにともだちが登場する可能性がある。書き換えられた記憶こそが現実であり、未来を描く悪夢なのだ。
それは今、ロック少年やマンガ少年の夢を食いつぶして二十世紀の終末を形成したオヤジたちの醜い現実である。
++
記憶を問うこと、それはi-podやiPadを手渡されてしまったボクたちのある種の宿命なのかもしれない。オヤジになったもの、あるいは二十世紀に少年だったものたちの。
『二十世紀少年』は、少年マンガ、男の物語の顛末である。ここに少女マンガは含まれていない。たった今、10代の少年がiPadやi-podを手渡されれば、アーカイブを満載している世界をそのように認識できる。世界はそのように存在する。
20世紀の半ばからメディアの新興とともに生きてきたボクたちは、そうはいかない。自分の記憶なかにある体験とアーカイブを突き合わせてみないと現実を認識できないのだ。再確認、再構築を余儀なくさせられている。
でないと擦れた記憶の妄想を現実として生きることになる。それは悪夢のような現実なのかもしれない。
+++
手塚治虫の漫画をリメイクした浦沢直樹の『PLUTO』も記憶の擦れがテーマになっている。浦沢直樹のライフワークは記憶の擦れなのかもしれない。
『鉄腕アトム』は『少年』に連載されたが、月刊誌の『少年』や『冒険王』を買ってもらえたのはお金持ちの子だった。付録の多い、正月号はお年玉で無理をしてかった。甥っ子の家には『少年』のバックナンバーも『鉄腕アトム』の単行本も全部揃っていた。一年に一度、正月に甥の家を訪れると、ボクはマンガの本棚から一時も離れず、食い入るように貪るように読んでいた。
それなのに浦沢の『PLUTO』を読んだとき、アトムはこんなことを描いていたっけと意外に思った。原作の「地上最大のロボット」を読み直すと、昔、本棚の前で身動きすらしないで読んでいたあの時の状況を含めて、コマ一つ一つの感動が甦ってくる。
イメージの擦れはどこで起きたのか。おそらくTVアニメの勧善懲悪の非常に収まりの良いアトム像に原作の感動がオーバーラップされたのかもしれない。原作に感動して、記憶に鮮明なのにアトムはアニメのアトム。この不思議な擦れ。
浦沢直樹はアニメのアトムをクリティカルに見れたんだ。それは世代が少し擦れていることのよるのか、浦沢の目がきっちりマンガ的だったのか。
ボクはただただ、マンガやアニメを享受していたんだ。
++++
『二十世紀少年』を組み込まれてボクの手にあるiPadを操作しながら思うのは、記憶とアーカイブを付け合わせるために存在するのではないかという印象だ。
再検証するツール。そしてアーカイブ自体も、アトムの連載中のスキャンなのか、一回目の単行本なのか…それによって作品を読むという行為は変化する。
今、iPadによってもう一度、作品そのものに向かうことができるのではないかと思う。作品の印象は、どう作品を売り出すかということで決まってくる。作品そのものを純粋に読むということは稀である。(優れた読み手、目利きはそれができるだろう。子どもの浦沢が「地上最大のロボット」をきちんと読み解けているのは彼がマンガの申し子なんだと思う。
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i-podがデータを余り劣化させないで手許に持ち込んでくる装置だとしたら、iPadは実は、源素材がどうであったか、そして途中こんな風に加工されて、そして今、見るとこうなるという経過を知りながら、作品そのものに再び出会う装置なんだと思う。
だからどのデータをオリジナルにするのか、それをどう編集するのかということが必要なメディアなのだと思う。少なくとも『二十世紀少年』が漫画に対してもっているような自己検証のクリティカルな態度をもっていないと、iPadはとんでもない劣化コピーの装置になってしまうだろう。
編集なしで一番お手軽な文庫本からスキャンしたデータが売りに出されているが、それは違法のスキャンと大して変わらない。もしかしたら愛がないぶん、もっと駄目かもしれない。
メディアは使い方も使う目的も定まらないまま、ふっと目の前に登場する。どうつかいこなすかによって紙の本と共存できたり、紙の本の魅力を強化できたりできるはずのiPadが、単なる劣化コピーと編集なしのだらしない端末になってしまった時、紙もその影響を受けて本当に消滅するだろう。
本は、その価値を分らない意識によって滅ぼされるのだ。
update2010/07/12
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iPad〈1〉 二十世紀からはじめる
ブログを廻っていたら、モデルの女の子がi-padに『二十世少年』を入れて読んでいるのに出会った。iPadの向こうには田園の風景が見えていた。のんびりしている時はiPadでマンガを読んでいます…ハーブティーを飲みながら…
それを見ながら、まず何を入れるかでi-padの先行きが決まるのじゃないかとふと思った。何の根拠もないけれど。今年は、電子書籍が紙の本を駆逐する元年だと言われているが、i-padがそれをするともできるとも思えない。ただはじまっている紙の本の衰退を典型的に見せつけることになるだろう、そして一層の変化を助長するだろうと思っていた。
しかし予想外のことも起きるかもしれない。何かにドライブがかかるということもある。それは意外と何のコンテンツから触るかということによる。3Dの好きな人は3Dのプレゼン用に使うだろう。趣味がかなり決まっている人ではなく、気になるのは何となくiPadを買ってしまった人たちのことだ。その動向は何かを作り出すかもしれない。
新しいメディアの頭脳になんの記憶を入れるのかは重要だ。青空文庫は黴臭いから嫌だ、というi-padユーザーの書き込みを読んだが、僕は青空文庫からはじめて、これを機会に全作を走破するだろうと思っていた。小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』夢野久作の『ドグラマグラ』も入っている。幻想三大奇書の二つが収容されている文庫って素敵じゃないか。新青年時代の、そして小説が確立せず海外作品をパクったり翻案したりしながら、それを貪るように読んでいた時代の日本が透けて見える。
『二十世紀少年』なのかも、と囁くもう一人のボクもいる。まだ注文したi-padがとどかないので、ともだちに電話してみた。二日ぐらいなら貸してもいいよ、仕事が忙しいからと、ともだちは、わざわざ事務所までもってきてくれた。
i-padの最初の記憶メモリーを他人にまかせるのも面白い。もともと必要が高じてできたメディアではない。向こうから来るメディアをさらに向こうの思惑通りに使うのも悪くないと思った。ともだちのi-padには『二十世紀少年』が入っていた。あとは青空文庫全巻。『二十世紀少年』は、映画もマンガもまったく触れていなかった。ちょうどよい。二十世紀からはじめよう。
この原稿は読みながら書いている。最初と最後で思っていることが変化するかもしれない。読みはじめてすぐに『20世紀少年』は、漫画とテレビとともに生きた少年たちの夢の顛末物語なのだと予感した。夢の顛末かぁ…もしかしたら漫画の村上春樹、野田秀樹になってしまう可能性もある。夢をどう描くか、顛末の郷愁をどうするかで、夢自体を売り渡してしまうこともある。そんなことになるなら夢は空き地に埋めておいたままの方が良い。オカルト的な宗教を描きながら、二十世紀少年自体が夢を食い潰すカルト物語としてに作動する可能性もある。
update2010/07/11
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宮西計三+薔薇絵
もう見えることができないかもしれない現在形の頽廃。
昔、年下の友人が、頽廃って歌右衛門が鼻水を垂らしながらでも舞台に立ち続けるっていうことでしょう、と質問だか自問だかどちらの調子で言ったのか、今は覚えていないが、鼻水の歌右衛門が強く頭に残っている。歌右衛門を見はじめたのが遅かったので、言われるような名演技は見ていないが、妹背山婦女庭訓の定高を、前から三列目、花道脇の席から見上げたことがあって、確かにそうかもしれないというぎりぎりのシチュエーションだった。三階席や二階席、あるいは一階の後ろではもう感じれなくなっている、歌右衛門の演技するオーラを浴びた。全力で演技をしている歌右衛門は、まさに鼻水を垂らしそうな体力の衰えを隠しもしなかった。演技をするために恥ずかしくなっている身体を隠さない。晒したままにする。身晒れ(みしゃれ)という言葉があるが、まさに骸骨になってもかまわないいま、この演技さえすればという執念を感じた。
歌右衛門の晩年の舞台を頽廃とするなら、もうひとつ頽廃としか言いようのない舞台裏が進行している。それは、宮西計三 「見世物小屋」或は「舞臺裏」。宮西はフライヤーに自らをこう書いている。
画業の道程をその「舞臺裏」へと辿るものであり、三流出版と言う「見世物小屋」的世界に在って稀有な本物たり続ける彼の表現を再確認するものです。そして新たな試みとして画業のみならずパフォーマーとしての多年に渡る活動にもスポットを当てた新たな"晒しの場"を提示するものであります。
歌右衛門と宮西計三を並べるのはまさに頽廃の極北…。表舞台と舞台裏、国の芝居の頂点に立っていた歌右衛門と、三流出版社を舞台にしていた宮西計三は、同じくして頽廃を戴冠していると…普通ならこうも言わないのだが、必要以上に自虐的に身を貶めて舞台裏に立ち続けている、覚悟すら見える宮西計三に、さらなる自虐を起させるほどの言葉となるとなかなか見つからない。さすずめこんな言い方になるだろう。歌謡曲を嫌悪し、一流を否定し、体制を破壊しようとする宮西の、それでいてときおり媚びたり、脅したりする卑怯さももちあわせている頽廃ものは、ありのままに、いやありのまま以下を晒すように、腹をめくって内臓を見せるかのように舞台裏の楽屋に立ち続けている。
そう宮西計三は、会場のショーウィンドウで会期時間中絵を描いている。肖像画家として。そして薔薇絵は、まさに一幅の薔薇の絵のように、崩壊した伽藍のように居続けて、踊り続けている。宮西計三がナハトいう昏さに仕込んだのは、策略の伽藍であり、崩壊した修道院の伽藍だ。その崩れかかっている伽藍に薔薇絵の踊りの存在はもっとも似ている。…いる薔薇絵は、ずっとずっと踊り続けている。屍体を踊っている。宮西計三の絵に捧げるように。薔薇絵の乾いた白粉が、仄かに桃色をたもっているのは、白に混ぜた顔料なのかはたまた、まだひそかに頬に生気が残っているからなのか? いずれにしてもクノップスの絵画に描かれたようなこの世ならぬ頽廃の女性は、踊っている。ずっとずっと。踊りは舞台でお客のために見せるものにあらず、という考え方もあるが、お金のために身を晒して芸能者であるがゆえに踊りだという覚悟も必要だ。土方巽は自らの踊り子にそう実践させていたではないか。薔薇絵の仄かな生気を保った踊りは至高のものである。
鉄の板と鎖で構成された仮の廃屋伽藍に、また今日も枯れた木の瘴気を放たれ宮西計三と薔薇絵が楽屋裏という栄光の舞台に立つ。頽廃は現在形では体感できないもの。歌右衛門の頽廃も大人になってはじめて甦ってくる体験だ。しかし体験なしでは記憶に甦ることもない。今、薔薇絵と宮西計三の頽廃を脳漿に焼き付けて置くことを是非に薦めたい。どうだったかは、あなたが屍体となって焼かれる寸前に甦るかもしれない未生の答えだから。
update2010/07/01