column
東京カワイイ☆TV の駄目さ加減
NHKのディレクターに何度も説明したように
2ヶ月に渡ってBABYTHESTARSSHINEBRIGHTの展覧会を行ったのは、
ゴスロリと称されていることの実勢に何かがあると思ったからだ。
ゴスもロリータも180度違う価値観をもっているのに何故、ゴスロリという混合した名前で呼ばれるのか。
文化であるゴスやロリータがくしゃくしゃっと表層だけ掠めとられて名を付けられてどんどん劣化コピーされてこんなになっちゃってる。
その劣化コピーされたものをさらに劣化させて海外にもっていったのが
東京カワイイ☆TVの8月15日放送の『パリプロジェクト・最終章』
ストリートからキャリア零のデザイナーを何人かピックアップしてきて
素人さん+佐藤可士和が選んで、選ばれたデザイナーがパリコレに挑戦して評価を得れるかという代物。
パリに提示されたイメージとコンセプトは
今、日本にあるゴスロリと呼ばれている劣化コピーされた文化、その根元にあるゴスとロリータという文化。とはかけ離れた
NHKのバラエティーのシナリオも書けないようなディレクターが書いた現実遊離のシナリオなのだ。
ゴスロリなら、ゴスやロリータなら流行の文化を背景にした日本の提示になるだろう。かろうじて。
素人のデザイナー(もちろんここから才能が生まれるかもしれないが、それはゴスロリとも可愛いとも関係のない才能だ)を
突然、日本の現代の文化現象の上に乗っけて、番組のやらせとはいえ、パリで見せるなんて
なんと傲慢で、聴取料の無駄使いをしているのだろうNHKは。
ドキュメントをすべきじゃないのか、分かっていないのだからNHKは。
ドキュメントと言えば、ロリータブランドを取材していたNHKディレクターが放映前に痴漢で逮捕されてその取材がお蔵に入ったということもある。ロリータとロリコンのロリがいかに異なるかということを今最も認識しなくてはならないのだが、NHKのディレクターはロリコンの方からロリータブランドを見ていたんだな…。
ついでに言っておけば、外務省のかわいい大使も
間にちゃんとプロダクションの手配師が存在するし、かわいい大使も雑誌の読者モデルであって
ロリータでもゴスでもゴスロリでもない子で
文化を浸透させるなら、顔じゃなくてほんとのロリータやゴスを選ぶべきだと思う。外務省の役人もロリコン風だからなぁ…。最悪。
今ある文化を理解せず、劣化コピーされたものを自分勝手に解釈して
最悪なシナリオを書いて、それを通用させる快楽に浸っている。権力と金の力を使って。
そこにNHKも一枚かんだという訳だ。
襟も満足についていないような服をもってきて、パラボリカビスで投票させたんですよ。BABYTHESTARSSHINEBRIGHTのコアなお茶会のメンバーに。デザインをなんだと思っているんだろう。そのデザインもできていない服を、買って着るのは自由だし、そこから生まれるものもある。しかしそれをいかにも今の日本文化の背景に乗って登場したとパリに、見せつけようとするNHKのやらせ体質は、ほんとどうしようもない。番組を見ている、ロリータもゴスも知らない視聴者は、パリで見せた素人のファッションショーを今、日本で流行しているものの一端だと思ってしまうだろう。文化に対する犯罪だとすら思える。
このデザイナーたちを褒めた佐藤可士和。自分の言葉には責任もてよ。番組に登場して発言できた唯一のプロなんだから。
そしてビスの会場で投票し、佐藤可士和にセレクトさせながら、落ちたメンバーも連れていって、ショウに参加させたり、売り込みさせて番組のネタにしている。まじめに意見をいって選んだ、ビスに着てくれた、ロリータの人たちの気持をなんだと思っているんだろう。
そうは言ってもテレビに出たいんでしょ、利用したいんでしょ会社はという傲慢さが伝わってくる。
ネット・マガジン『骰子の眼』/で浅井隆さんと対談して
放言している僕はネットは劣化コピーの温床と言っているが
NHKの東京カワイイ☆TVは、劣化コピーに擦りもしない、捏造工場だと思う。
劣化というからには、劣化の根元があるわけだけど、その根元から逸脱し、そこに何も敬意を払っていないというのがNHKの東京カワイイ☆TVだ。制作費は聴取料からでているんでしょ。ひどいなぁ。
それに比べたらネットの劣化コピーは100倍ましだ。
まずちゃんと見ろよ。
あ、そうか痴漢ディレクターがそれに失敗しちゃったからね…。
見ることができないから捏造しているのか。
だったら番組なんか作んなきゃ良いじゃないの。
でも分かんないんだろうな、ほんとに。イノセントというのが最も酷い罪なんだけどね。
それも分かんないだろうな…。
とにかく仕込みとやらせだけでできているものを公共放送で流しているんだから
文化も掠めとられ刈り取られ、いつの間にか醜いものに変わってしまうんだろうな。
嫌だ、嫌だ。
update2009/08/16
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誰もいない

ここには
誰もいない
寺山修司も
そして…誰も。
いつか夜想で寺山修司の特集を
と思い続けて
それまでは墓にも記念館にもいかない。
そう決めていた。
墓はいらないと言った人だから
もしできるなら
寺山修司という言葉の墓を作って捧げようと
そしてもう
四半世紀がたって
僕は無駄に時を過ごした
寺山さん
僕は、空の手で三沢に来てしまった。
1983年5月
病で倒れてた僕を寺山さんは連れていこうとした。
何もない手で
訪れた僕を
ならばこっちにおいでと僕に道行を運命として
手渡すのだと
勝手に思っていた。
だから安全ブレーキをもって三沢には立ちたかったのだけれど
いろいろあってそれもならず
一人、無防備なまま
僕は森を歩いていた。
三上博史が
覚えているはずのない
(だって僕の姿はとてつもなく変わってしまっていて
僕に森の中で声をかけた
久しぶり。
笑顔が明るかった。
僕は寺山修司の碑のあたりから
湖を眺めていた。
ずっとずっと。
霧雨がずっと降り続けて服はだんだんに重くなっていく。
それは服の重さではなく
心にどこかに入り込んで
何かを沈めていた。
寺山修司は質問として生きたかもしれないが
僕は、寺山修司を答えとして生きていたのかもしれない。
目的に生きていたのかもしれない。
まちがっていたのかな。ね、寺山さん。
茫漠とした憂いが
身体を重くする。
脳を蒼く染める。
目的はないんだね。
指標もないんだね。
そのなかで寺山さんは答える間もなく質問を続けてきたんだ。
いまその質問は僕でないいろいろな人に答えられている。
思い上がって言えば
そんなにあっているわけじゃぁない。
でもそれは答えなんだ。寺山さんは1つの質問には
答える人分の答えがあると思っていた人だ。
それを疎外しちゃいけないと思っていた人だ。
ひっかかっていないと思って
僕もしっかりとひっかかっていたんだね。
人の答えの中に拡散した25年。
寺山修司は望みどうにみなの答えのなかに生きている。
ここに寺山修司はいない。
墓にもいない。
僕は何を目的に、何のために生きてきたんだろう。
そしてこれから
どうやって。
湖はただ湖として
僕の目の前にあってセンチメンタルなものは
なにもない。
ただある。
そして誰もいない。
update2009/08/02
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手が暴れる

なぜか手が
暴れる日がある。
コントロールできなくて
ぼん
と爆発する。
何かが割れていく
実感もあって
それにうろたえているのかもしれない。
確かめなくっちゃ。
update2009/08/01
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最後の魔法のおかげで

最後の魔法のおかげで世界はとても綺麗です。
明日がこないからです。(二階堂奥歯)
考えていることは
不在の影響ということ。
不遜な考えだけれど
彼女のもっていた
ボックスの範囲に不在なもの
そんなの関係ないよ。
嗜好だよ
久しぶりにあった天井桟敷の人は
そう言ってくれる。
たしかにそうかもしれない。
でも
不在の仮定から
はじめることもできる。
僕のもっている寺山修司全歌集の
『空には本』のところに
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり (歌集『空には本』所収)
不在の少女。
夏美という架空の少女。
ならば
仮説を胸に宿らせて
しばらく生きるというのも可能だ。
もちろんほんのしばらく
ということだけれど。
update2009/07/22
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シュルツ

少し前から
シュルツのことを気にしていて
グロテスクの可能性を
シュルツに見たら…などと思いを巡らせている。
東大でシンポジュウムがあって出かけたのだが
講師の赤塚さんが
シュルツ画集から女性の足にかしづく男の絵をたくさん抽出して
スライドで流したら
ここでこんな絵をどんどん流して大丈夫かとどきどきしましたという
沼野さんの発言や
ヌードモデルを使って描いたんだから
裸の足が描かれているという視点もあってもいいじゃないのか的な
加藤女史の発言もあって
呆れて
出てしまった。
加藤さんはシュルツを描いた映画の中に
ちょっとエロティックな女性がでていたのを
シュルツに合わないと言っていた。
今の視点で
セクハラ的表現であっても
それはシュルツの世界なんだから…
シュルツは充分にエロティックで変態でグロテスクで…
でも
それが今の地点で
成立できるギリギリの位置で
いや逆にその位置だからこそ光彩を放っているということが
重要な現代からの視点じゃないだろうか…。
フェミニズムもいいけれど
潔癖症的なのはどうもなぁ。
それが現代に繋がっているからまずいというのは
いいけど
作品自体をうんぬんするのはどうかな。
見方がかなり歪んでいる。
芸術を見る見方として。
さて
そのあたりがこれからの仕事になるんだろうな…。
update2009/07/21
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八本脚の蝶 二階堂奥歯

少女期は
実際には少し遅れてやってくる
14歳の少女は27歳に姿を顕す
世紀末が00年を越えて
10年代まで続くように
意識は十年遅れて少女を識る。
77年生まれの二階堂奥歯は
01年頃から少女期を迎えただろう。
八本脚の蝶はその6月にはじまった。
そしてその筆致は、主のいないいまもネット上に残されている。
死者に対して常に遅れるのがまぬけな生者たち。
もう何度、何年そうした阿呆を生きてきたのか。私は。
00年代、『夜想』がとっくに前世紀を過ぎて
休止していた。二階堂奥歯は東雅夫の『幻想文学』を見て育ち、国書刊行会の編集者となった。
少女期には過酷な00年代、わずかな盛期しかもたない
少女たちの
最近は滅びる前に断ってしまう傾向のあるそのことに
幻想を司る一部の雄たちはもう少しナイーブであれと
自戒を含めて思うのだ。
さて。
update2009/07/17
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野田秀樹 東京芸術劇場芸術監督就任
顔のない人々の、根拠も確信もない“気分”が、多数ゆえに正論として横行し、尊重されるべき現場の創造性を奪っている――。
インターネットでの風評についてだろうが…野田秀樹が東京芸術劇場の芸術監督就任にあたって、A4の紙一枚にわたる長いネット批判を繰り広げている。それが就任の挨拶だ。
たしかにネット上の余り当たっていない風評がどんどん拡がって評価が決まってしまうという現状はあるが、ここまで執拗に言うのは何かあったのかと思う。しかし正論なので、ぜひ、頑張って欲しいと思う。
感慨深いのは、野田秀樹が『夢の遊眠社』を率いていた頃に、朝日ジャーナルに一人の批評家よりも一人のミーハーをと宣言したことがあって、とても印象深かった。野田秀樹の言動の効果は大で、朝日新聞の扇田昭彦をはじめ、ジャーナリズムが批評を行わず、褒め褒めの感想だけを載せるようになった。野田秀樹の演劇に対する批評ってほとんどないんじゃないかと思うほど、野田秀樹は評論されていない。その流れが85年以降の日本の演劇を芸術ではなくしてしまったとすら私は思っている。
野田秀樹は今になって顔のある、意見が必要だと言っている。からかうわけじゃないけど、歳とって芸術監督になって大人な発言しても遅いんじゃないだろうか…。若い時に言って欲しかったなぁ。あるいは、若い時には顔のない観客が良かったけど、それは間違いだったと言えば、議論が起きて面白いと思う。野田秀樹が高いところからもの言っちゃ駄目だなぁ。
でもプログラムはなかなかのスタート。プロペラという水車小屋を改造した男だけのシェークスピア劇団を招聘した。『ベニスの商人』は、刺激的で考えさせられる、エッジの立った作品だ。
皮肉じゃなくて頑張って欲しい。東京都の箱物行政は、ほんとに箱運営でしかなかったから。ソフトに力を入れる箱にぜひなって欲しい。
update2009/07/14