column
モンスター&フリークス
一年がかりで夜想「モンスター&フリークス」
なんでこんなにかかるんだろうと
自分でも呆れてしまうけれど
チャーミングな人形や俳優たち
そして写真
フリークスだから可愛い。
そんな号になっていたら嬉しい。
書店がかなり荒廃してきていて
だんだん夜想を扱ってくれるところが減ってきた。
大ピンチだけど
どうにかして乗り切りたいな。
宇野亜喜良さんのイラストも素敵だ。
みんな素敵だけど。
update2009/11/18
column
乖離同一性障害
自己診断だけれども。
乖離同一性障害。
酷いストレスを浴びて
記憶が飛んだ。
初めての経験。面白いので雑誌『S』にそのことをちょっと書いてみた。
まだ自分では良くつかめていない。
感覚としては深海のエアポケットに閉じこめられていた感じだ。
この3ヶ月。
水からは遠ざかり
閉ざされた空気の中でもがいていた。
多重人格だからやっていけるの。現代人はそうでしょ。
日本画家からそう言われたときピンとこなかった。
彼女はそれを日常にしているような感覚で言っていたからだ。
日常ではないでしょう。それは異常でしょう。
僕はそう思っていた。
僕は多重人格ではないけれども
この3ヶ月でそれが少しだけ実感できたような気がした。
違う性格の自分が作動する時があって
その出現は押さえられない。
いい歳して、と思うけれど、そんな大人の配慮にはお構いなしにでてくる。
それは
単独で起きていることではなくて、
皮膚を通じて進入してくるものがあるから
そうなるのだと
実感する。
ばらばらになりそうな
人格を、塵取りで集めて
とりあえずのヒトガタを作り
復帰しようと思う。
表の世界に。
おいおい闇の世界は話すことにして。
でも闇にもがいたゆえに『夜想』が無事に出て行く。
もちろんたくさんの人の力を借りて。
もう一人じゃ何もできない。
いやそうじゃない。一人でできないことを痛烈に自覚しただけだ。
『夜想』。
どうかな。
update2009/11/17
column
危機裸裸商店
アリスになりたくない
アリスを作れない
人形作家のそんな思いが展覧会のベースにあります。
危機裸裸商店のキキさんは
そんなことも引き受けて
展覧会を作っています。
可愛くて怖いアリス。
週末に訪れてはちらりと裸の人形を見て
さっと
コルセットを作っていく。
会場の隅にある危機裸裸商店の工房では
人形のコルセットが次々作られていく。
update2009/11/15
column
夜想がフィニッシュを迎えている
本当に余裕のない2ヶ月を過ごしてきて
かなり追いつめられて身動きとれなくなったりもした。
まだまだ解決には遠いが
それでも応援してくれる
駆けつけてくれる人たちもいて
元気つけられる。
どうにか保っている。
越えれば、何か見えてくるかもしれない。
一年ぶりの夜想もフィニッシュを迎えた。
ずっとずっと考え続けていたので
何かが見えるようになっていると嬉しい。
でもそれは結果なので
今は、最後のチェックに邁進中。
update2009/11/04
column
散佚

感覚が散佚していくのは今という時代のせいなのだろうか。
育てているオリーブに実がなった。
もらった木なので持ち主にとどけると
ふりっと身を捩ったような気がした。
瀧口修造の家に一本のオリーブの木がある。
そのことを青木画廊に集まってくる知識人たちは
なんとなく誇らし気に語っていた。
夜に木の下で瀧口修造と撮った写真を見せてくれた人の
どれほど羨ましかったことか。
どうにかオリーブの木を持ちたいとか
そんな気持ちは何も起きなかった。
夜、そこに立って見たい
ただそう想っていた。
あの時
感覚は妄想に囚われていたのだろうが
少なくとも
持続をもっていた。
戻ることはできない感覚は
一枚のメモのように
モニターの向こうに映る
海峡の嵐で沈没した船から一人救われた少女のように
そして銀髪になった坂本龍一がまだ戦場のメリークリスマスを弾いてしがみつかれているピアノをみるような
かすかな
ざらざらとして走査線のメモでしかない。
断裂線の上に置くメモは
かろうじているオリーブの実が置かれた
それでもせめてティッシュのような
実紙でありたい。
update2009/09/05
column
メディアはこれから…

EP-4のギターの好機タツオが死んだと
ネットにあった。
今日知った。
さらにEP-4がこれを期に再結成すると。
アップリンクでEP-4のカセットブックの話をしたばかりだったので
びっくり。
シンクロするものだ。
200から手作りして売ったカセットブックは5500まで売れて
そこから坂本龍一の『アヴェク・ピアノ』のカセットブックができて55000売れた。
発売中止になったEP-4の『昭和崩御』はペヨトル工房が引き受けて
書店売りを行った。
お騒がせ系のメディアの使い方だったが
それでも何かが確実に動いていた。
今、インディーズのメディアにその起爆性はない。
もしかしたらインディーズのメディアという考え方すら
存在できないのかもしれない。
コンテンツを集めただけでは
メディアにはならない。
そこにはいかがわしさもついてまわるかもしれないが
拡がる魅力をもっていないとメディアにはならない。
あきらめていた
メディアのことを少し考えた。
今
EP-4が動くとしたら
メディアはどうセットすべきなのかと…。
update2009/08/26
column
劣化コピー ネット/2チャン
ネットは劣化コピーの温床
ネット・マガジン『骰子の眼』/で浅井隆さんと対談してそう語った言葉が
タイトルになって
2チャンで炎上した。
2チャンが嫌いといった発言と
ネットは劣化コピーの温床と言った発言が
混ざって読まれているのだろうが
ネットの劣化コピーは
2チャンを媒介していなくて
おそらく信用に足りるだろうと思われているインテリのサイトやウィキペディアに書かれている
あっていそうな事柄が事実としてコピーされて定着していくことを言っている。
本について書いているものが、その本の解説を自分風にアレンジしたもので、そのアレンジが自分の感覚で、裏がとれていないものだったりする。しかしその人が本の権威だったりすると、それはあっと言うまに、ネットの基本引用事項になって拡がっていく。
それは読む人がうなずきやすい言いっぷりであるから、事実とズレていても、いやズレているがゆえに流布しやすくなるのだ。
ネットの劣化コピーは主にそのことを言っている。
2チャンが嫌いなのは、故無き、腐す言葉を叩きつける感じが嫌だということで、相手が嫌がること、元気なくなることをわざと言うという基本姿勢をしていて、それは2チャンネラーの思う壷通り、何かをする側は、するのが嫌になってしまうということなのだ。
作るという行為は、作っているというだけでレスペクトされるものではないが、批評が本来、次の創作に重要な力となるということとまったく逆のような作用を及ぼすからだ。
DVとかアディクションの恋愛の嫌な感じ、逃げられない感じ、それでも言い訳を行動してしまう感じを起す。それがとても嫌だと言っているのだ。ネットは使うので、ググったりするとなにかのおりにふっとあたったりする。で、逃げるのも嫌だからやっぱり見てしまい、しばらく何もする気がなくなってしまう。だから嫌だと言う個人的な話で、存在するなとか駄目だという以前の問題だ。
劣化コピーの根元になっている、あるいはその現象については、嫌とかという感情の問題ではなくて、メディアの有効性や美学に関する大きな問題だと思っている。できればこちらは無くなって欲しいと思う。そこに存在しているのは、僕は分っているという愉悦感と、それにともなう優位性と、それによって商売をするという行為の連鎖であるからで、劣化して書かれたそのものはただただ違うものにすりかえられていくというどうしようもない負の連鎖を浴びることになるからだ。
update2009/08/20