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2006/03/17

雨の降る日が

驟雨の似合う
窓がある
たまたま訪れたルーフのカフェで
ぼんやりしていたら
驟雨が窓を叩いた

仏蘭西を気取った
カフェの窓からは
そのままパリの薫がした
ちょっとアンニュイで
春を待つ
あの感じ

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2006/03/10

痕跡

何の上を歩いたのか
自分の足の痕跡が
意識のなかに残っている
それが何処なのか
何時なのか
もう思いだせない

人形を製作している
あの薄暗い
密室の床に
散らばった石膏の粉
そこにつけてしまった
足跡だったかもしれない

そこにいた
作りかけの人形は
もう形になっただろうか
それとも
壊されて
芥のようになって
床に散らばっているのだろうか

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2006/03/10

光りあるところに

夜想のセッティング・スタッフたちが
一斉に作業にとりかかると
床から光が
放たれるような
力の充実を感じた

手が
複層的に動いているように
見える

少し前に行けるかもしれない
と、
未来を思った。
未来を思考できるのは久しぶりだ。

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2006/03/09

最後には

三浦悦子さんの人形の展示

最後にはすっきりとした
インスタレーションを
することにした。

わびさび
恐るべし。
きっと自分の中にも
わびさびが
いてどこかで良いじゃないかと
作用するからかもしれない

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2006/03/07

デザーテッド・ドールズ

2006年3月10日から26日まで
三浦悦子さんの人形展が
京都町屋ギャラリー『まほら』で開催される。
中京区小川通御池南入る
075ー211ー3237

東京から人形を満載したバンが
京都に向かっている。
今日からセッティング開始。
東京とはまったく異るものにしたい。

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2006/03/05

危ない写真展  トークショウ

飯沢耕太郎さんと
危ない写真集展トーク。

コレクションはただ集めれば良いと言うものではない。
以前、土人形を集めていたことがあったが、
その内でも佐賀人形を特に集めていた。
コレクションの達人の
奥村靫正さんは、伏見の土人形の本当に良いコレクションを
もっているが、
佐賀人形の良いのを見つけると
ふと、買ってきてくれる。
いらなかったらボクが買うけど
どうぉ……。
という感じで。

羽子板を集めているのを知ると
今度は、東郷神社の市で
六代目菊五郎が六人違う演目を演じているのが
一枚の羽子板になっているのを手に入れてきてくれて
譲ってくれる。

何というんだろう。
粋でお洒落で……。
人のコレクションの流れを
大切にしてくれる。

だからボクも
伏見人形の犬のまぐわいという不思議なものを見つけた時には
奥村さんに一報する。

飯沢耕太郎さんの危ない写真集のコレクションは
とても飯沢さんらしいエッチさとフェティッシュさと
インテレクチャルをもったコレクションだ。
そのコレクションの素性の良さを見て欲しいと
話しをした。。

明日からは
京都の三浦悦子展の準備だ。
町屋でデッドテック。
さあ、どうなるか。

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2006/03/04

癩王のテラス

松岡正剛さんに久しぶりに会う。
「最近、病気をしてね……」
ブログで追いかけてますから、良く知っています。
言いそうになるのをやめて
話しを聞いていてた。
自分もそうだけど、10年ぶりに会う人が
自分の行動を良く知っていたりする。
不思議な感じだ。もちろんブログとかミクシィとかを読んでいるから起きることなのだ。
情報を書いているのは自分なのに……。

三島由紀夫の癩王のテラスの話をして
ぱっと反応する松岡正剛さんの
感性の良さに改めて感心する。
この人は、知識と思われているけどそうではなく感性で生きている。
すぐに
ジュネの「バルコン」がと
応じてくれて嬉しかった。

インタビューが終わって
何度でも生まれ変われる
まったく意味のない
フレーズが頭に浮かんできた。

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2006/02/17

壊れたチョコレートのほうが

壊れたチョコレートの方が
効力があるということは
ないだろうかな……。?

親しい現代美術の作家さんからとどいた
チョコレートには
見事なひびが入っていたが
余りに見事なので
感心した。

食べたら
とても美味しかった。

これから仕事をするかもしれないので
ちょっと不思議な感じの
縁起良さをかんじた。

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2006/02/08

ひとがた

人形が
人の形をしていることが
いろいろなことを生んでいる

そこに意志があるように見える
それは誰の意志?
作家の?
人形の?

顔があることで要素はさらに
複雑になる
それが彫刻とは異るところだ。

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2006/02/05

義躰廃工場

ボランティアで参加しているスタッフの力量が
かなりアップして
思うとおりのセッティングができあがった
三浦悦子・人形展『義躰廃工場』

乳白に暖かく
影のない無菌室と

ざらざらに石膏の粉が舞う
作業場と

廃工場は
発掘されたままの状態で
展示される

今年はこれではじまる
進行形に思える
ものは
どれも美しい

トラックバック(1)

このリストは、次のエントリーを参照しています: 義躰廃工場:

» 「義躯廃工場」 from Input/Output
 夕方の日暮里へ。三浦悦子さんの新作ドール個展「義躯廃工場」を見て来ました。よかったです。作品点数も多かったし、新作も有名作も… [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年02月15日 01:29

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2006/01/18

ちょっと壊れた何かを

ちょっと壊れた何かを
抱えながら生きている。

でも
何かが動いているという
実感もあるので
かろうじてそちらの方に向かって
動いていく

レシピがないと
動けない

でも
ふと
以前のように
本能で動いてみても
良いのではとも思う

設計図を描いても
そのままは動かないものだから

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2006/01/17

日本橋

情景が浮かばない
というのも
鏡花は
情景を描いてはいないからだ
ということもある

叙情
であり
文学の幻想、文字による表現が
主旨なのであり
情景を伝えようということに
主眼を置いていない

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2006/01/14

すっと抜けない何か

すっと抜けない何かを
抱えている
何かあるとぐずつく感覚だ。
それが自動的に起きるから困ってしまうし
扱いかねる。
自分を扱いかねるところに
導く
すっと抜けない何か。

感覚のぶれの
ローリングからの
影響はだいぶ解消できるようになったが
まだまだふっと
貌を出して
僕を悪戯して消えていく。

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2006/01/12

見える

舞台を見ていて
踊り手の思っていることが見えることがある
それを文章にして
踊り手に驚かれたことがある
突然、電話がかかってきた
どうして私のあの時の頭の中が分かったのかと……。
それは大野一雄さんだった。

ふっと見えなくなることもある
泉鏡花の「日本橋」を読んでいて
風景が浮かんでこなくなった
嗚呼。

僕は昏い路地を探して
彷徨しだした。
路地の昏さに身体が馴染めば
また鏡花も還ってくるかもしれない

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2006/01/01

思うことは


今、
思っているのは
才能がありながらちょっとしたことで
トップランナーになり損ねた人(たち)のこと。

表現する時に
不可欠な
受け入れてもらう形式
それをちょっと逸脱した
しただけのことでトップランナーになれなかったというのは
余りに哀しい。
とくにその形式が
日本での観客の裁量不足ということであると
辛い。

ボクは
そうした観客への呪詛をぶつぶつ言い続けてきたような気がする
そのことは出版社の人に指摘されて気がついたのだが
それは「天使のいない夜」
という本になったのだけど
書いた後はもう
呪詛を吐かないと決意した
何故なら
それは自分を棚に上げてのことになると思ったからだ。

しかし
こうして消えていく人の表現の一生を
思う時
再びちょっと観客のことを
そして日本の舞台のシステムのことを呪ったりもする

トップランナーになれなかった才能豊かな人たちには
ちょっとした弱さ
たとえば下品だったり
とかでなれないということもあって
それはしょうがないなと
諦めもつく
しかし
そうでなかった場合
スケールが大きすぎた
ゆえにという時には 
残ったものにかなり慙愧の念が
訪れる

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2005/12/21

踏みだした足

踏みだされたものは
たしかに
ポワントでごつごつの足だったのだが
それは
小さく手の中に入りそうだった

光のなかに
踏み出された足は
軌跡を越えた
射し込み
のような煌めきがあった

その足は
いま荼毘にふされて
灰色の粉になっていることだろう

帰国した瞬間にだけ見せた
閃光のようなダンスを
私は決して忘れない。

あなたのそばで
その足を見ていたかったから
私は
踊りの世界に入ったのだ。

レダよ
鎮かにねむれ
あなたの生きるのに
この地は余りにも湿り気が多かった。

本来は
追悼の舞台を催したいのだが
あなたの代わりを踊るダンサーがいない

コメント(2)

--しかし語ることで誰かがどこかでプラスにはじけてくれる。そんな気がする。--
「ダッチワイフのもう一つの貌」、拝見しました。
はじけました。
ありがとうございました。書いて下さって。
もっともっと はじけます。
みんなが、ふつうに、尋常に、生を性を 生きているのだと知っていきます。

りんご : 2005年12月27日 12:43

この日、雪の降るなかで
ひとりの男が踊りました。

お線香をあげにいって…
それから彼の踊りを見に行きました。

追悼の踊りを踊るというのは
別に冠がついている必要はないのだと思います

観客が、そして踊ることを生きる人々が
彼をわすれずに
せめてこの日をわすれずに
踊りをみることを思い出せる
そんな日であってほしい

記憶と記録が
薄れないうちに

おぼえているあなたが
記録をみせてくれなかったら
誰が彼を知るのでしょう

それとも彼の痕跡を
消そうとしているのですか?

mahamayuri : 2006年02月09日 11:51

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2005/12/14

None

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2005/12/13

贋作・罪と罰/野田秀樹——(1)

イギリス留学に行ってから、野田秀樹の芝居を何故か見に行かなった。夢の遊眠社は、ほとんど公演を見ている。マネージャーの高萩さんの巧みな誘い術によるところが多いのだけれど……。
夢の遊眠社の演出と、それ以降の演出が大きく異るからだ。野田秀樹は、留学したイギリスでの体験を元にワークショップ云々……というようなことを言い出したからだ。じゃぁ、それまで、子供、子供した演出に感動してきた観客はどうなるのよ、小劇場演劇といって出てきた、夢の遊眠社/野田秀樹、第三舞台/鴻上尚史、あとボク的には第三エロチカ/川村毅……そうした連中は、演劇論を展開しないで、演劇を行い、そして10年経って何となく自分たちの演劇のスタイルをフェードアウトしてしまった。それがどんなに演劇にとってマイナスだったか。寺山修司にしろ、唐十郎にしろ、鈴木忠志にしろ、そして太田省吾にしろ自分たちの演出法は、変化、進化こそすれずっとアイデンティティとして維持してきた。踊りでもそうだ。土方巽は暗黒舞踏を抱いて死んでいったのだ。
だからどうも野田たちの動きには納得の行かないものがあった。そのことを夜想リターンズ展での対談で、カンバセーションの前田さんと話したが、でも野田はいいよ、と前田さんは、一言ボクに釘を刺した。前田さんの踊りを見る目をボクはとても信用していて、数少ない踊り見者の一人だと思っているので、その彼が良いよというなら、もう一度、考え直さないといけないなと思っていた。

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2005/12/08

None

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2005/12/06

闇が深いと

爬虫類の膚を見ると
ぞくっとするのは
遺伝子のせいだろう
血を見て顔を背けたくなるのも
生物的に自分を守る本能なんだろう

アディクションが起きた時に
身体を動かすのは
理性ではない
あっ
と思った時はもう身体は動いてしまっている
ものだ。

耽美は
その生物学的反応を越えて
美に
身体をたらりと
委せる美学なのではないだろうか

身体をきりりと鍛えれば
生物学的反応から逃れて
自分の腹を
切ったりもできるかもしれない
それも
美しいと思いながら
うっとりとしながら……。

そのとき
理性と遺伝子は
叛乱されたことに
嫉妬するのだろうか

身体を
深く見ていくと
おそらく底には
計り知れない闇が
発祥するのだろう。

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