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『菊坂ホテル』上村一夫

DSC03836.jpg雪の本郷 2-04 菊坂に雪が降る。坂の下は冥府のごとく昏い。

『金色の死』読んで、半年前の雪の日を想う。
坂の下にはかつて菊坂ホテルがあった。

文士たちが集い、不条理の愛を交わしたところ。
ホテルについては、『菊坂ホテル』近藤富枝(中公文庫)が詳しい。

上村一夫の『菊坂ホテル』は小説王に連載され、昭和60年に単行本化された。
『関東平野』『狂人関係』『一葉裏日記』は、どれも愛読書だが、『菊坂ホテル』もまた何度読み返したかしれない。

上村一夫は、作家の視点から作品を描き続けた。
印象的なシーンが在る。
江戸の出版屋・蔦屋重三郎が歌麿を面倒見ようとして、必要ない、絵はこの手が勝手に描いてくれる、お前は遊ぶ場所だけ作ってくれたら良いと、言うと、蔦屋がどうして私の力が必要ないんだと、じたばたする。

支配しようとするディレクターと作家の関係であり、編集者と漫画家の関係でもある。
上村一夫は、徹底して作家の立ち位置から全体を、時代を、そしてその昏さを絵にした人だ。
できることなら一枚の絵にしようとした、絵師である。

『菊坂ホテル』には見上げる絵がでてくる。
上村一夫には見上げる設定は多い。

十二階の下に蠢く娼婦が、十二階の塔の上から望遠鏡で浮気の現場を見続ける妻を見返すという一枚絵。
これが上村一夫の女性観であり、描き続けたテーマである。

女が死んで高いところから落ちるのを描く作家はいる。石井隆、ルコント…。
下にいる女が上にいる女を見上げる。なかなか描けない構図だ。

『菊坂ホテル』には竹久夢二、谷崎潤一郎、お葉、佐藤春夫、今東光、伊藤晴雨などがでてくる。
描かれているのはおそらく大正7年から8年かけての1年。
ちょうど谷崎潤一郎が、スランプに陥り、義妹と不倫の関係になり、映画スターにしたてあげようと、映画会社と脚本契約をしたりする時期にあたっている。谷崎潤一郎を主体に描かれている。

最後は、谷崎潤一郎の、己の天才は真実の光を発揮するのだ。(『神童』)を引用して終わるが、もちろん谷崎の才能主義を肯定している分けでない。その哀れさを描いているのだ。



update2008/04/20

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『三島由紀夫の美学講座』 筑摩文庫 

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『金色の死』はあきらかに失敗である。

三島由紀夫は谷崎潤一郎の作品をそう断言する。

+
そしてこうも言う。
しかし天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのほうに作家の諸特質や、その後発展させられずに終わった重要な主題が発見されやすいことが多い。

三島は強く、傍点をもって谷崎潤一郎の『金色の死』を引用する。
   
   そのうちでも最も美しいのは人間の肉体だ。思想と云うものはいかに立派でも見て感ずるものではない。

三島は、肉体、つまり見た目が思想よりも立派だというところに同意しているのだ。『金色の死』の前半の岡村は、文芸をこなしつつも肉体の方が美しいと主張している。そこが良いと。そして後半でそれを否定しているところが駄目だと言っている。

鉄棒の方が、却て鞭のような彼の体でぴたりぴたりとさも痛そうに打たれました。岡村君の、肌理の細かい白い両脛には、無数の銀砂が薄い靴下を履いたように付着して居ました。

これは『金色の死』の中で、三島が敢えて引用しなかった岡村君の美しい肉体への賛辞の部分。文章的にも内容的にも三島好みである。

三島由紀夫が封印されていた『黄金の死』を全集に取上げ、長い解説文を書いた理由は、このあたりにありそうだ。三島は、文学的資質を充分にもちながら器械体操を優位とする岡村が、(その状態を三島はよしとする)最後には金に飽かせて西洋美術の模倣品の理想郷を作った、そこが駄目だと言っている。どうして前半のままの岡村で、そしてそのままに死なないのかと思っているに違いない。

『黄金の死』は三島由紀夫の生き方に大きな影響を与えたように思える。そして作品にも。

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三島は書く。
それにしても『金色の死』の、美の理想郷の描写に入ると、とたんにこの小説は時代的制約にとらわれたものになる。統一的様式を失った日本文化の醜さを露呈する。

たしかにそれはそうかもしれない。しかし『金色の死』のラストを三島の非難からかばいたくなる誘惑にかられる。まぁ良いではないか。そのばらばら度合いも良しと。

谷崎潤一郎は、理想郷に入れるべき美術をまず日本は豊国と西欧はロートレックを上げている。三島がそれを苦笑している…しかし隔たった山の一角の、白亜の洋館の廊下(ベランダ)を…と『金色の死』の、谷崎の書く理想郷と、非常に近しい白亜のベランダ付きの洋館に、ロココを配して三島由紀夫は住んだのではなかったか。

まさに三島由紀夫は魅入られるように『黄金の死』を生きたのだ。

+++
谷崎の描いた、金粉を塗りたくってパフォーマンスをし、皮膚呼吸ができなくなって死ぬというのも理想の庭園に相応しい。谷崎潤一郎は『金色の死』で耽美世界に足を少し踏み込んでいたのだ。この時代に言われていた耽美ではなく、西欧にあるような本格的な耽美に。踏み込んでしまったと思ったのか、そのあたりは分らない。

三島由紀夫の嘆美は、谷崎の耽美とも少し異っている。どっちをとるかと言えば、耽美に関しては、谷崎をとりたい。谷崎潤一郎の理想郷の美術の中には、若冲が入っている。『金色の死』が1914(大正14)年に書かれたことを思うと、谷崎は何かをつかんでいたように思う。谷崎の耽美の嚆矢として、僕は谷崎世界をレスペクトしたい。

++++
三島由紀夫の思う通りの美的価値観で終わらず、しかも作品自体を葬ったことに対して三島由紀夫は抗議しているように見える。谷崎潤一郎が貫かなかった[器械体操が思想を凌駕する]という思想を補完するかのように三島由紀夫は人生を生きたのだ。

三島のデカダンスは、行為の耽美者である。妄想と模造の思想のために死を賭してしまう三島由紀夫は、そのことで最高の耽美者と言えるだろう。本物ゆえに死を賭すのは殉死である。三島は文学者として生き、文学者として死んでいるのだ。虚構を最高の模造品にして、理想郷にして、かなうはずのない主張を掲げて、毎日していたような切腹遊戯のようにしてセクシャルな耽美を現実に一瞬持ち込んで死んだのだ。

ただ三島由紀夫がその模造性をどのように意識化しえていたのかは、これも分らないところである。意識しないからこそなりえたとも言えるし、興味深いところだ。

『金色の死』


update2008/04/20

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1999『The Virgin Suicides ヴァージン スーサイド』 ソフィア・コッポラ

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カモ井のマスキングテープをもらう。武蔵とカブキS。


車両塗装用マスキングテープなんだけど、名前が凄いなぁ。
カモ井のMTシリーズの問屋契約をしたのだけれど、僕の好きな工業用製品は扱えない。
ファンシーで、ガーリーなMTシリーズだけ。しかも大箱単位なので、扱い切れない。どうしようかな。

MTシリーズのパステル調の色合いの渋さがもうちょっとガーリーになればなどと考えながらカフェ・バッハで一息入れる。

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昨日見た『The Virgin Suicides ヴァージン スーサイド』の色使いは、やっぱりコッポラらしく、デビューでこんなにしっかりと女の子の感覚を表現し切れているのは、さすがだなと、感心する。

++
女の子たちが自殺する分けは、最後まで分らない。分らないところに立ち入らないところが女の子の感覚。
それを見ていた男の子たちは、理由を考えるけど、分らない。でも男の子たちは彼女たちを愛していた。青春のまっただ中で。

ロスト・イン・トランスレーション≫


update2008/04/17

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『秘密』 清水玲子

最後に何か言わせろや。どうせ死刑なんやから
死んだ人の脳を見ることで、「念」が伝染(うつ)るんだよな。

清水玲子の『秘密』がTVアニメになったが、死んだ人の脳を読むという設定と、その脳から『秘密』が読めるという、カバーと帯を読んで作ったかのような浅薄さは、いかに大衆を相手にして、既成のある業界だからといって、酷いんじゃないかと思う。

三原ミツカズの『死化粧師』のドラマ化にもそんなことを感じた。

少し前なら、『夜想』で取上げるとしても、躊躇したり、発禁になったりすることを考慮しなければならなかったテーマや設定が、今では誰が見ても良い、TVで放映される。TVはぎりぎりの変わった設定を欲しがる。そのくせより普通で、安易なものにする。

最後に何か言わせろや。どうせ死刑なんやから。これは宅間守が言った言葉で、裁判官は発言を制した。報道や世間の常識は、最もやばいもの、最もネガティブなものに蓋をする。蓋をされた最悪なものは、さらに凶悪になって伝播する。

清水玲子の『秘密』の犯罪者の脳を見ることは、宅間の最後の発言を聞くことと同じことである。そこにはもしかして歪んだ愛もあるかもしれないし、その愛が、歪みに歪んで到達した、どうしようもない地点の夢魔のような地点に同気することなのだ。清水玲子が描いているのは、そうした人間の「念」が伝播していくことのどうしようもなさだ。

『秘密』や『師化粧師』の「念」の部分を描かないということと、宅間の発言を聞きたくないというのは、まさに同じことであり、それがどれだけ潜在している「念」を現実の行動に移す、ことに繋がっているのか、考えてみた方が良い。

分っちゃいないな…。それがゲートを越える一つの感覚であるような気がする。

PSで言えば、
『秘密』は、脳の話や、人のプライベートな秘密についての話ではなく
『秘密』にまつわる人の愛や想いを真っすぐに描いた、純愛の物語であることを
脚本化はもう少し分った方が良い。


update2008/04/13

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『死都ブリュージュ』 ローデンバック

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都市の陰鬱を描いた作品……と言われているが

恋愛にもならない頽廃の関係に堕ちていくユーグとジャーヌの関係は、
理性が禁忌を呼びかけているのに離れることができず
アディクションにも近く続いていく。そのどうしようもない脳のブルーな感じを都市に投影する。
そんな感じだ。都市がそれを起したとユーグは言うが、それをそのままには受け取れない。

都市の景色の中に主体の心理を織り込む文体は、心理描写を巧みに隠して、なおかつそれを強く感じさせる。心理描写と言われるものは、意外に感情を説明したものであることが多く、感情をそのままに、描くにはローデンバックのこの文体が必要かもしれない。

何故逃れられないのか……。もう妻と同じという幻想は失せたのに。
答えが死都ブリュージュにあるような錯覚を起させるデカダンス。極地かもしれない。

パラボリカ・ビスは明日、13体の人形を迎える。すでに会場に到着している。
準備に忙しい。中に何体か感情を風景に譲り渡したかのように無表情にしている娘がいる。
頽廃のかんばせをした子がいる。
娘なのか子なのか……それは会場で確かめないと分らない。
妖しい雰囲気を漂わせている。

ユーグの愛した死んだ妻と、踊り子のジャーヌが同居しているような。
頽廃は、今の世にあって貴重だ。


update2008/04/09

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『夜の声』 ホジスン

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霧にまみれた闇の海から声が聞える。
『わしはただの年寄りの——人間だ』


ラヴクラフトへつながる、怪奇作家・ホジスンの名作。ホジスンは、1903年、つまりヴィクトリアン朝の終わり頃から、海を舞台とした小説を書き始めて人気作家になる。留学中の夏目漱石がイギリスにいた頃だ。


『夜の声』は、『ゴジラ』などの東宝怪獣ものの監督、本多猪四郎が1963年にとったホラーの名作『マタンゴ』の原作としても知られている。

ヨットでセーリングしている男5名、女2名が、暴風雨にあい、霧にまかれ遭難し無人島に流れ着く。そこには、難破船があり、謎のキノコ・マタンゴが生息している。

黒沢清が絶賛する『マタンゴ』。原作も上品な筆致で、心理描写に優れているが、映画も劣らず当時の若者たちの風俗や、心理を描きつつ、スパイラルに恐怖のシーンに向っていく。特撮を見せたいだろうがそれを最後まで残しておき、そこへ到る怪奇の道行をドラマとして描いていて面白い。

ホジスンの怪奇の面白さは、イジメを受けながらの船員生活や、写真に興味をもったりという現実を直視するという、リアリストの感覚があることだ。1902年10月、アメリカの奇術王ハリー・フーディニがイギリス来たとき、縄抜け術如何わしさを証明するために、挑戦し、自らの手で縄をきつく巻きつけ、ハリーを困らせた。(観客はハリーに同情的で、これで人気を失うはめになったとも伝えられている。)不思議な現象にリアルな背景を加味するところがホジスン独特のかき方で、『夜の声』にはそれが伺える。

『マタンゴ』もホジスンのリアリストとしての資質を生かして映像化している。初期の東宝の怪獣ものには、そうした現実からの移行をきちんと描いていたものが多く、怪奇幻想の王道であると言える。


update2008/04/09

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丸尾末広 パノラマ・パノラマ

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浅草には稲村劇場という蛇女や傴僂男が

跋扈する小屋があった。ちょうど花屋敷の向かいくらいだ。
その劇場主の一族が今はイベントとビデオの会社をしているというのを丸尾末広から聞いた。
しかも丸尾さんの家から歩いて少しのところにある。

昭和の中頃にはもちろん十二階もなく、仁丹塔もまもなく壊されてしまった。それらは浅草のパノラマ館だったのだろう。感覚的な。そしてもちろん稲村劇場も。

パノラマの魅惑を知っているのは丸尾末広。
机の上にのるパノラマ・絵葉書を夜想のために作ってもらった。縦の絵も、横の絵も、護謨を使って自在に展示することができる。そのフォリオというかタトウが、パノラマになっている。吸血鬼の……。
絵葉書は絵葉書はだいたい四六判(単行本)の大きさです6枚入っています。
絵はがき(ハガキ/ポストカード)の1.4倍くらいの大きさ。
お求めは:ステュディオ・パラボリカ[para shop]へ≫
4月3日から、書店などで店頭販売される。
もしなかったら注文してください。

update2008/04/02