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『金色の死』谷崎潤一郎 1914(大正14)

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谷崎潤一郎が自らの手によって全集から抹殺していた作品がいくつかある。
三島由紀夫が谷崎の死後、復活させた。『金色の死』。三島の生き方に影響を与えた感のある作品。そして江戸川乱歩が狂喜して『パノラマ島奇談』を書くきっかけになったと言われているいわくつきの作品だ。

今は講談社文芸文庫で簡単に読むことができる。解説を読みながらいろいろなことを考えてしまった。

 それにしても岡村が築いた『絢爛なる芸術の天国』のパノラマは、まるで安っぽい個人美術館のような模造品の羅列でしかない。実はこの風景は私たちにとってディズニーランドやUSJの粗形というべき見慣れたものだ。近代において芸術や美がオリジナルの威光(アウラ)を消失して副製品たらざるをえない宿命を1936年に番屋民が唱えるより20年以上早く、ここにはアウラなき模造の美に殉じた人間が描かれていたのである。さらにエドガー・アラン・ポーを模した筆名の江戸川乱歩に、この作品が衝撃を与えて『パノラマ島綺譚』を書かせたのは大正15年(1926)年になってからである。その振る舞い自体が皇軍諸侯の模造であった三島の自死に到るまで、『黄金の死』は模造の循環と連鎖を発動している恐ろしい予言的な作品をいわざるをえない。(清水良典)

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解説では、谷崎の描く庭園を模造品だと言って、ちょっと否定的だが、逆に、人間にとってのユートピアや楽園や庭園や廃虚を、オリジナルや自然そのもの、いわゆる本物で作るということはあるのだろうか。

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人工物だからこそ、理想郷になるのではないだろうか。アートとはアーティフィシャルなもの、人工のものである。谷崎潤一郎は、作品の中で…そしてこの作品の元になったと言われるポーの『アルンハイムの地所』『ランダーの別荘』にも繰り返し語られているように、自然は不完全だ、人工的に配置されたものこそ完璧だと語っている。
その例に上げた人工物がどうか?ということは若干あるだろう。江戸川乱歩と谷崎潤一郎とでは、そしてこの作品を強くとりあげた三島由紀夫もまた『癩王のテラス』で人工庭園を描いた。しかし三者とも異る。
そこが面白いのだが、では庭園に並べた美術にセンスがあったかというとそれは、どうかな…という感じだ。それでも、それだからこその理想郷、理想庭園なのだ。

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オリジナルの作品をその国の背景や文脈から切り離して蒐集して並べたとしたら、そのほうが俗悪である。本物だからアウラがでるなどという妄想をいい加減棄てた方が良い。オリジナルからでるアウラはあるシチュエーションによって起きるのだし、受け取る側に見とる力がなければ発生しないのだ。そして本物でなければ、いきなりキッチュな模造品だという感覚と美の短絡も改めた方が良いのではないだろうか。

三島由紀夫は『金色の死』の前半に描かれた岡村を自らに投射したのだろう。そして、三島としては余り評価しない後半の部分、白亜の屋敷、ロダンの肉体、ギリシャ彫刻…その模倣。黄金の自尽すらも重ね合わせた。僕の最も好きな三島由紀夫『癩王のテラス』の美学にも通じる原点がここにある。

『パノラマ島綺譚』丸尾末広≫
『アルンハイムの地所』『ランダーの別荘』


update2008/04/20