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『秘密』 清水玲子

最後に何か言わせろや。どうせ死刑なんやから
死んだ人の脳を見ることで、「念」が伝染(うつ)るんだよな。

清水玲子の『秘密』がTVアニメになったが、死んだ人の脳を読むという設定と、その脳から『秘密』が読めるという、カバーと帯を読んで作ったかのような浅薄さは、いかに大衆を相手にして、既成のある業界だからといって、酷いんじゃないかと思う。

三原ミツカズの『死化粧師』のドラマ化にもそんなことを感じた。

少し前なら、『夜想』で取上げるとしても、躊躇したり、発禁になったりすることを考慮しなければならなかったテーマや設定が、今では誰が見ても良い、TVで放映される。TVはぎりぎりの変わった設定を欲しがる。そのくせより普通で、安易なものにする。

最後に何か言わせろや。どうせ死刑なんやから。これは宅間守が言った言葉で、裁判官は発言を制した。報道や世間の常識は、最もやばいもの、最もネガティブなものに蓋をする。蓋をされた最悪なものは、さらに凶悪になって伝播する。

清水玲子の『秘密』の犯罪者の脳を見ることは、宅間の最後の発言を聞くことと同じことである。そこにはもしかして歪んだ愛もあるかもしれないし、その愛が、歪みに歪んで到達した、どうしようもない地点の夢魔のような地点に同気することなのだ。清水玲子が描いているのは、そうした人間の「念」が伝播していくことのどうしようもなさだ。

『秘密』や『師化粧師』の「念」の部分を描かないということと、宅間の発言を聞きたくないというのは、まさに同じことであり、それがどれだけ潜在している「念」を現実の行動に移す、ことに繋がっているのか、考えてみた方が良い。

分っちゃいないな…。それがゲートを越える一つの感覚であるような気がする。

PSで言えば、
『秘密』は、脳の話や、人のプライベートな秘密についての話ではなく
『秘密』にまつわる人の愛や想いを真っすぐに描いた、純愛の物語であることを
脚本化はもう少し分った方が良い。


update2008/04/13

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『死都ブリュージュ』 ローデンバック

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都市の陰鬱を描いた作品……と言われているが

恋愛にもならない頽廃の関係に堕ちていくユーグとジャーヌの関係は、
理性が禁忌を呼びかけているのに離れることができず
アディクションにも近く続いていく。そのどうしようもない脳のブルーな感じを都市に投影する。
そんな感じだ。都市がそれを起したとユーグは言うが、それをそのままには受け取れない。

都市の景色の中に主体の心理を織り込む文体は、心理描写を巧みに隠して、なおかつそれを強く感じさせる。心理描写と言われるものは、意外に感情を説明したものであることが多く、感情をそのままに、描くにはローデンバックのこの文体が必要かもしれない。

何故逃れられないのか……。もう妻と同じという幻想は失せたのに。
答えが死都ブリュージュにあるような錯覚を起させるデカダンス。極地かもしれない。

パラボリカ・ビスは明日、13体の人形を迎える。すでに会場に到着している。
準備に忙しい。中に何体か感情を風景に譲り渡したかのように無表情にしている娘がいる。
頽廃のかんばせをした子がいる。
娘なのか子なのか……それは会場で確かめないと分らない。
妖しい雰囲気を漂わせている。

ユーグの愛した死んだ妻と、踊り子のジャーヌが同居しているような。
頽廃は、今の世にあって貴重だ。


update2008/04/09

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『夜の声』 ホジスン

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霧にまみれた闇の海から声が聞える。
『わしはただの年寄りの——人間だ』


ラヴクラフトへつながる、怪奇作家・ホジスンの名作。ホジスンは、1903年、つまりヴィクトリアン朝の終わり頃から、海を舞台とした小説を書き始めて人気作家になる。留学中の夏目漱石がイギリスにいた頃だ。


『夜の声』は、『ゴジラ』などの東宝怪獣ものの監督、本多猪四郎が1963年にとったホラーの名作『マタンゴ』の原作としても知られている。

ヨットでセーリングしている男5名、女2名が、暴風雨にあい、霧にまかれ遭難し無人島に流れ着く。そこには、難破船があり、謎のキノコ・マタンゴが生息している。

黒沢清が絶賛する『マタンゴ』。原作も上品な筆致で、心理描写に優れているが、映画も劣らず当時の若者たちの風俗や、心理を描きつつ、スパイラルに恐怖のシーンに向っていく。特撮を見せたいだろうがそれを最後まで残しておき、そこへ到る怪奇の道行をドラマとして描いていて面白い。

ホジスンの怪奇の面白さは、イジメを受けながらの船員生活や、写真に興味をもったりという現実を直視するという、リアリストの感覚があることだ。1902年10月、アメリカの奇術王ハリー・フーディニがイギリス来たとき、縄抜け術如何わしさを証明するために、挑戦し、自らの手で縄をきつく巻きつけ、ハリーを困らせた。(観客はハリーに同情的で、これで人気を失うはめになったとも伝えられている。)不思議な現象にリアルな背景を加味するところがホジスン独特のかき方で、『夜の声』にはそれが伺える。

『マタンゴ』もホジスンのリアリストとしての資質を生かして映像化している。初期の東宝の怪獣ものには、そうした現実からの移行をきちんと描いていたものが多く、怪奇幻想の王道であると言える。


update2008/04/09

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丸尾末広 パノラマ・パノラマ

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浅草には稲村劇場という蛇女や傴僂男が

跋扈する小屋があった。ちょうど花屋敷の向かいくらいだ。
その劇場主の一族が今はイベントとビデオの会社をしているというのを丸尾末広から聞いた。
しかも丸尾さんの家から歩いて少しのところにある。

昭和の中頃にはもちろん十二階もなく、仁丹塔もまもなく壊されてしまった。それらは浅草のパノラマ館だったのだろう。感覚的な。そしてもちろん稲村劇場も。

パノラマの魅惑を知っているのは丸尾末広。
机の上にのるパノラマ・絵葉書を夜想のために作ってもらった。縦の絵も、横の絵も、護謨を使って自在に展示することができる。そのフォリオというかタトウが、パノラマになっている。吸血鬼の……。
絵葉書は絵葉書はだいたい四六判(単行本)の大きさです6枚入っています。
絵はがき(ハガキ/ポストカード)の1.4倍くらいの大きさ。
お求めは:ステュディオ・パラボリカ[para shop]へ≫
4月3日から、書店などで店頭販売される。
もしなかったら注文してください。

update2008/04/02

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『少女椿』丸尾末広

21巻の紙芝居『少女椿』にインスパイアーされた丸尾末広の『少女椿』

21巻通しで上演されることもあるらしい。見てみたい。

寺山修司が見世物の復権をかざしてアングラ芝居をしていたときの雰囲気やモチーフが『少女椿』にはある。
寺山修司は海外遠征をして、カントールや、ウイルスンなどの前衛演劇に触れる度に、モダンな、そしてコンテンポラリーな前衛演劇に変貌していった。寺山修司は短歌という身体性をブリッジに、最後まで、見世物的日本とつながっていたところがあり、それは『田園に死す』などの映画を見ると良く分る。

丸尾末広の『少女椿』は、アニメや芝居などにとてつもない影響を与えた。東京グランギニョールの飴屋法水も丸尾末広の世界を標榜する芝居だった。丸尾末広も舞台に登場し宣伝美術を担当していた。

夜想の後楽園球場を使ったイベントに東京グランギニョールに出演してもらったときも、全体のB全のポスターは丸尾さんだった。

見世物小屋はなくなり、寺山修司も作風を変え、少しずつみなが魔界の世界を離れぎみになった80年代、それでも丸尾末広の世界は、脈々と次世代に受け継がれていった。微妙に変貌しながら…。そして世紀の変わる頃に、アニメ版『少女椿』というとんでもない事件のような作品を生んだりもする。アニメ版『少女椿』は、映像にパフォーマンスが加味されて上映される。

見世物小屋の世界はどこまでも身体を絡めた事件を孕んで継承されていくのだ。

update2008/04/01

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『ロスト・イン・トランスレーション』 ソフィア・コッポラ

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東京、新宿、パーク・ハイアット・ホテルをベースにプラトニックな愛を描いた、ソフィアコッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』

海外の作家が日本を描くと、必要なイメージをコラージュすることがある。ソフィアの映像にズレはない。新宿からハイアットに移動する風景は、そのまま現実の流れのままだ。出てくる登場人物も、例えばヒロ・ミックスがそのままに出てくる。
女の子の見た、ガーリーな感覚で見た、東京のドキュメントなのだ。私の見た東京。

『マリー・アントワネット』もソフィアの見た、感じた、フランスを、アントワネットの時代に置き換えた、一種のドキュメントなのだ。創作されている部分と、リアルな感覚で繋がっている部分のあり方が、男的ではないのだ。


update2008/03/18

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『マリー・アントワネット』 マカロンは続く

マカロンがどんどん来る。

スタッフが持ってきてくれたり、あるいはピエール・エルメのマカロン・ケーキを食べさせてくれたり。

+
ソフィア・コッポラは、マカロンの色にインスパイアーされて『マリー・アントワネット』を撮影した。マカロンのいろいろな色が、映像から感じられるように…したいと、マリー・アントワネットの時代にはない色を使っている。
++
それは蜷川実花が印画紙の発色にまでこだわって、色を作り出しているのにちょっと似た感覚かもしれない。色の配合、絶対的な色の感覚が、まずありきなのだ。ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』は、食べているお菓子とか、ファッションは史実とはまったく異る。スニーカー履いていたりするから。でも現代にマリー・アントワネットがいたら…当然、スニーカー履くよね、あるいはマリー・アントワネットの時代にスニーカーがあったら履くよねというとってつもないガーリーさによって撮影されている。いいなぁ。
+++
色彩とか音の感覚で台本を進めて行く、ロジックではない。


もっともソフィアが好きなのは、僕が最近食べたピエール・エルメではなくLADURREのマカロンだ。ヴァレンタインには、三越で買えたらしい。ちょっと食べてみたかったな。

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ピエール・エルメ

update2008/03/15