公式外部サイト

  • YouTube
  • USTREAM
  • twitter

pickup

rss

    news

  • editor's talk

books

『カストラチュラ』 鳩山郁子

SBSH02061.JPG

「ハオマー八番音読しなさい」
ハオマーは読み上げる。
「皇帝は幼い頃より宮中に深居し、それはいつしか独自の美的なるものの世界を形作り生涯それに耽溺する要因となったと思われる。」


さあてどこに行こうかと彷徨いぎみに夜の裏観音を歩いているとき、ふと、倉庫の奥に碍子を隠しているのを思い出した。電柱を立てて、電線を這わして…ショウ・ウインドウができるなら、耽美にまた溺れるのも良いかもしれない。
夜想は、ネオの時代のそのネオ具合に身体を任せて復活した。そして00年代が過ぎ次のディケイドに入ろうとしている。彷徨いはそのことと関係があるのかもしれない。
鳩山郁子が示しているのは、ネオにならないそのままでの未来。ゴシックがゴスになり、人形がドールになる、耽美がおたんびになる中で、耽美が今、生きるには、いや頽廃するにはどういう可能性があるのかという、そこを描いているのが美しい。
この未来派の耽美を享受できる人民とともに新人類を養成することが新たな使命なのか…もしれない。

展覧会のフライヤーにも引用した、
『けれどもその裏腹では身体と精神とをばらばらに遠避けているところで安住しているのだ。』
なぜ去勢歌手でありながらその原理を我がものとして入れることをしないのだろう。と、人工の不具者である者たちが相互に相手に原理を受け入れることを諭しながら、自らは不完全者として卑下する裏腹。人工の、究極の美でありながら、受容する器を持てぬ哀しさは、まさに我が身の頽廃にも近い。
いや我が身のというには、余りにいい加減に生きてきた。このものたちの頽廃にもっと身を持ち崩したい。頽廃が未来に生きないというのは余りに明らかなことではあるが、頭で読みきったふりをするのは反退廃的過ぎはしないかと、自省する。

その果てに膨らみつづけた去勢歌手の肉体が限界を超えたとき、解剖学の天使に誘われて、昇天する、少年の姿に戻る、卵形に膨張した纏足の去勢歌手よ。その一瞬に描かれた頽廃の未来。少年は虚空でブランコにのる、その天使になる。屍体は若かりし肉体の貌を取り戻す。この見果てぬ頽廃の甘美。なにものにも代えがたく、鳩山郁子が作り出した21世紀の耽美。

update2011/11/30

books

遅いっ!

夜想bis+ Amazonさん載せるの遅過ぎる。 しかもいきなり品切れ。 

Amazon上では夜想が新本を割引で供給します。

Amazonの品切れがとまるまでの緊急措置です。


update2011/11/17

books

LIEN「Seabed tuberosa」

LIEN「Seabed tuberosa」はトラベラース・ノートとして使う機能をもっている。

LIENはヌイグルミを連れて、旅に出た。イタリアから仏蘭西へと。

アートブックの中には、旅の記録がつけられるトラベラース・ノーとが組み込まれている。

イタリアから一枚のカードがとどいた。

旅はまだまだ続く。



update2011/10/06

books

夜想bis#ドールという身体<普及版>

夜想・bis
本誌も早く編集しなくてはならないのだが、どうしても今を編集したくなって、夜想・bisを創刊した。夜想は夜想なのだが、時代の変化が激しく、自分の数年前にした仕事をヴァージョン・アップしなければならないことに気がついた。
身体としてのドール。その中で、ベルメールの影響を本格的に受けている人形作家はいないんじゃないの?という発言があるが、それがどんなに大きな意味をもつか…。
復刊した頃の、球体関節人形展がMOTで開催されていた頃には、とても頷けない発言だ。今は、それを受け入れることができる。だから今やることは…ということも分る。この5年の間に、何十年も、それ以上もかけてゆっくりと変化したものが、一気に変わっていくことを体験した。雑誌を刊行したり、展覧会したりしたことも少し関与しているかもしれない。その中にて変化がある。記述するのは難しい。それでも現実に正直にありたいと思う。その現れだと思っていただきたい。


夜想bis

update2011/10/06

books

ドグラマグラ 夢野久作  飴屋法水 吉田アミ 大谷能生

朗読デュオのための『ドグラ・マグラ』/夢野久作 読み

なんど読んでも面白い『ドグラ・マグラ』だけれど、大谷能生と吉田アミの朗読デュオで使うので、少し違う視点から読んでみました。

二人のデュオに、前回は、笙野頼子の『人の道御三神といろはにブロガーズ』をレジメした。3回、バージョン違いを上演したが、掛け合いのスピードや、即興の度合いによって聞こえてくるもの、見えてくるものが異っていて、それは、読むたびに印象が変わる読書のようだった。大谷能生が本読みだということもあって、女性要素のある神を、日本史の中に書きもどすというような笙野頼子の荒技を音に乗せるというパフォーマンスを果敢に挑み、成功していたと思います。声が文学の行間を前に出して来るということもあり得るなと感じます。

『ドグラ・マグラ』のテーマの一つは「私」は如何に存在しているかということです。
私は誰というテーマを、小説の中で、追求していますが、主体の呉一郎が、読者にもそして小説中の「私」にもその人物であるかどうか分らないような形式をしています。まぁそのこと自体とんでもない小説だと言えます。

『ドグラマグラ』挿入されている小説や記述も面白く、特に『胎児の夢』は、様々な人に影響を与えています。一番の記憶は、『胎児の世界』を書いた三木成夫さんで、芸大に会いに行ったときに、屍体の特集号について頼みに行ったのですが、夢野久作の『ドグラマグラ』に出てくる六道絵あるいは九相図のようなものについて書いて下さいと頼んだのですが、いきなり『胎児の夢』と踊る狂少女の話で盛り上がり、三木さんは常に持っているのだと、スーツのポケットから、『ドグラマグラ』の『胎児の夢』の抜き書きを採り出しました。夜想の原稿が気に入らないと、それまでは一切著作物を出さなかった三木成夫さんが『胎児の世界』を著しました。
胎児のうちに進化の過程をすべて体験し、その記憶が残っているというのが、『胎児の夢』の一つの主眼ですが、それは今では、普通のこととして考えられます。もう一つ興味があるのは、考えているのは頭脳ではないという脳髄論(『絶対探偵小説 脳髄は物を考えるところに非ず』)で、これも最近、腸が考えるというような研究が進み、脳の支配を受けずに思考が動くということが実証されています。

夢野久作の作品には、踊る少女が出てくることが良くあります。この不思議な少女と、科学的思考の果てにあるとんでもない、幻想譚。まだまだ三代奇書として君臨する。現代では奇書というよりも小説としてもっともっと受け止められて欲しい。

呉一郎が穴を掘るシーンとか、朗読デュオに使えるシーンはいくらでもでてきます。


持ってゆく歌、置いてゆく歌―不良たちの文学と音楽

http://www.yaso-peyotl.com/archives/2011/09/post_837.html

update2011/09/30

books

まどか☆マギカ

まどか☆マギカに一歩、近づけるのか、近づけないのか。

ふとしたことから、まどか☆マギカにはまっている。


成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論 

update2011/09/06

books

大山康晴の晩節 河口俊彦 

勝ちから見るのではなく、負けから見る。 しかも美しく。

以前、一時、将棋観戦を趣味にしたことがあった。河口俊彦の文章に触れたのが、きっかけだった。たぶん『覇者の一手』だったと思う。TVも観戦するようになり、米長解説で、羽生の対戦を見ていた時に、あ、ここが勝負手ですね。と米長がが呑気な口調で言うと、どっちですか?と司会が聞く。勝負手であることは分るけれど、どっちが有利かは分らない。どこに打てばいいんですかね? それがすぐに分ったら僕は名人になってますよ、盤で対局している人しか最善手が分らないものです。それを聞いて面白いものだと思った。
一分将棋はほとんど格闘技で、瞬間判断になる。それでも盤に坐っている二人にしか見えない筋があるというのは、不思議なゲームだ。逆に側にいて冷静なほうが見えるのは普通なのだが、そうではないのだと興味をもった。負けたすぐ後に観想戦をするのも驚いた。負けた一手を分析して、こうならよかったとまで相手とともに検討するなんて、とても自分に甘い人間にはできない。

勝負に勝ち、名を残すとのは強いということと少し違う。大山にとって将棋はゲームでもプレイでもなく、勝ちという事実を残す人生なのだ。棋譜を残す棋士も居る。谷川などもおそらくそうだ。羽生もその傾向がある。大山はそれ以上に戦績に対する執念があるのだろう。大山は、その姿勢があってA級で最後まで打ち続けたのだ。盤外でも盤内でも使える手はすべて使って勝つ、それが大山だ。河口俊彦は晩年の、もがくようにして盤に向っている大山康晴を、最大限美しく描いている。それは晩節を棋譜から描くという手法をとっているからだ。

癌にかかっていることすら利用するような駆け引き…。話しは少し異るが、WGPの一時代前のチャンピオン、ドゥーハンは、早く走って勝負を決めるのではなく、勝つように走るのが勝つことだと考えていた。引退を決めた後の最終戦、勝つことの呪縛から逃れたドゥーハンは死ぬほど速く、そしてコーナーをオーバースピードで飛び出してリタイヤした。そのすがすがしい顔が忘れられない。早く走れたんだ。凄い!それでも勝てなくなりそうだから引退する、それがドゥーハン。ちなみに250CCで若くして策士だった原田哲哉が、ロッシになんで早さ競争しないんだと、レース中にウイリーして挑発されたことがある。もちろんレースはそれぞれだ。それが人生観なのだから。

F1のチャンピオンの晩節、プロストもセナもシューマッハも、若手を脅したり牽制したりするという、将棋で言えば晩節を汚した。でもそれは汚したと言えるのかどうかというくらい、繰り返されることだ。プロストがセナを牽制し、セナはシューマッハを怒り…。ロッシは今、晩節にさしかかっているが、ドカティに移籍して挑戦をしているように見える。公式発言からは若手を盤外でどうこうしようということは伝わってこない。ロッシの引退までの走りざまがとても興味ある。さらにちなみにもがきつつけたシューマッハが、2011年9月11日のイタリアグランプリで素晴らしい走りを見せた。元チャンピオンとして。ベッテル、バトン、アロンソ、シューマッハ、ハミルトンという歴代チャンピオンが、連なって走り、シューミは、再三のハミルトンの仕掛けをしのぎ続けた。コーナーで二度進路を変更するという違反行為をそう見せないようにギリギリで使い、FIAの勧告が出そうになると、今度はロス・ブラウンが車線を開けろと無線で指示をして、チームはちゃんとやってますよと、そしてシューマッハにもフェアプレイをしろと、チャンピオンらしくと…示した。シューマッハは二つ目の車線変更を緩くし、ハミルトンはそこ隙間をつかってオーバーテイクした。
不必要なブロックを続けることで、晩節を汚しかけていたシューマッハはこのレース、盛りを過ぎた元チャンピオンとして見事なレースをした。復帰してからこのレースをするためにもがき続けていたと言っても過言ではない。でもこのレースができたのは素晴らしい。プロストにはできなかったことだ。

大山は、晩節に美学を求めるような棋士ではない。河口俊彦は洒脱な文章でそのもがきを美しく記述した。シビアに言えば、でもここにも河口俊彦の文学があり、それゆえにこの本は、将棋の分野よりもより文学の方に近いところにある。しかし河口俊彦がこのように大山康晴の晩年を描いたことで、河口俊彦自身が、大山世代とともに自らを終焉に追い込むことになる。河口俊彦に、今の、羽生以降の将棋の面白さ、棋士の面白さを書くことはできない。
将棋を棋士が書く仕事は、河口俊彦から先崎学へリレーされている。それはあちこちで見て取れる。能條純一の「月下の棋士」は河口俊彦が監修だが、「3月のライオン」では、先崎学が監修をしている。先崎学は勝てない棋士、勝たない棋士を描くのに上手なサゼッションをしている。勝つ、強い、戦略がしっかりしているという棋士の優位だけが棋士ではない、その当たりに先崎は目が行っている。河口の視点は、常に優れたものを見いだそうとしている。大したことのない対戦と思われていた棋譜、大したことのない晩年と思われていた大山康晴の晩節を見事にピックアップしている。

これからは勝てなかった棋譜の美学とか、美しく負ける棋士とか、執念の盤組みが崩壊する瞬間とか…勝負の結果、それも勝ちからものを見るのではなく、同じように負けからも棋士の生き様をポジティブに見る筆致が必要になってくるだろう。


update2011/09/01