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『サマー・スプリング』 吉田アミ
アップリンクのサイト『DICE』でhttp://www.webdice.jp/dice/detail/1770/
ペヨトル工房のことを書いている吉田アミ
いったい何者なんだろうと
『サマースプリング』
を読んでみた。
思いだしたのは10年以上前
父親を鬱で失ってその現場に立ち会わされて衝撃を受け
そのまま罪悪感のようなもの(自分がその朝、死ぬと言った父親に死ねばいいじゃんと返したこと)
を持ちつづけ抜け出せず
その時のことを10年以上何度も何度も書き続け
それをギャラリーで発表して
少し抜け出せた
という人のことだ。
なぜかその作品にあった一週間の間に
3人の年下の友人に
父親の鬱死を告白され
それが残された家族に傷と影を落とすことを聞かされた。
子どもの頃に体験したことを
書き続けて客体化して
少しどうにかする
ということにこの作品は何か繋がっている様な気がする。
しかし
ここで描かれているのは
世界が終わった後に生まれた子たちの
世界観とそれゆえに浴びてしまう
様々な傷害だ。
傷害についてではなく傷害そのものを書いている。
吉田アミは対象に対してダイレクトにあたる。
廃墟とか
デッドテックとか
滅びるとか
世界の終わりの果てにとか
80年代はずっと終末を言い募ってきた。
それが文化のイメージだった。
その世界の果てと言われる時代に産まれた子たち
生まれた時から世界は果てになっている。
もちろん、重要なことはそれがイメージ優先であり
それは呑気なクリエーターたちが作り出した
幻影であったということだ。
しかしこの時代幻影は現実を引っ張る。
そこに生まれた子たちが
迷惑にも
そしてしょうがなくも浴びてしまうもの。
それを受けたものと浴びさせてしまった世代ととのギャップは限りなく大きい。
今、そうしたものが自分の前に
ふっと現れる。これももう一つの必然、もう一つの運命のような気がする。
update2009/12/02
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『芋虫』 丸尾末広
yaso『モンスター&フリークス』に
ぜひ、とは思っていたのだけれど
江戸川乱歩の原作をほぼ忠実に描いた丸尾末広の『芋虫』は
他の要素を入れず楽しまれた方が読者にもよいものと諦める。
乱歩の『芋虫』は
執着と
その執着が思わず切れてしまう瞬間と
それからの絶望が
描かれた乱歩にしては文芸作品。
テーマが究極だと出てくる文学性
それが乱歩らしいと言えば乱歩らしい。
丸尾末広は
独特のグロテスク描写…雑誌のコピーを重ねているように
どこまで深くても激しくても匂いのしない
まさにコミックの筆致。
四肢なしの男とのまぐわいをこれでもかと描きまくる。
当時の風景が寺山修司の美術のように描かれているそのつまり度合いが丸尾らしい。
バナナはあの当時そんなに手に入ったかな…などと原作にない部分の
現実性を思うのも野暮だ。
嚆矢の一作と
思う。
update2009/11/04
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造本解剖図鑑 ミルキィ・イソベ
+
ミルキィ・イソベの『造本 解剖図鑑』。
感覚を全面に出してデザインしているのに、それぞれの造本の考えを分析できるのは凄い。意識化ということなんだろうけど…。夭逝した天才ライダー・ノリックが唯一、欠点にしていたのが意識化。なんか最下位に落ちちゃって、ガーッと頑張ったらトップまで行けたんだけど、どうやって行けたのか分らないけど…などといって師匠のレイニーさんを嘆かせていた。なぜ速かったのか、なぜ遅かったのかが分らないと、本当のトップを張ることはできない。
意識化というのは本人が行って初めて意味があるが、周囲のディレクターたちの方が良く分るから、そことコミュニケーションしながら獲得していくものだ。だけどミルキィさんの意識化は周辺のディレクター、編集者をぶっちぎって、理性的だ。本の構成そのものが意識化であり、むらがなく美しく積み上げられている。未知の領域を走っているロッシやライコネンのようだ。
++
造本を紙を中心に分析している。その紙に対する姿勢も曖昧なところがなくすっきりしている。今、紙についての作品や本が流行になっているが、大きく一線を画している。風合とかポエジーではなく、本を作るための紙に感覚が集中しているのだ。工場から出荷され本になるための紙。工業製品にいかに紙的な思いを反映できるか。そんな感じだ。
+++
帯びにも書かれているが、理性的でなおかつ感覚的なミルキィさんが使っている感性は、第六感だ。理性と感覚を合致させた上で、さらに読者に対してのジャンプをかけるべく、その延長上に何かをもってくるのだ。何かというのが第六感とか、皮膚感覚とか、内臓感覚による本の内容の受け止め物だ。合っていて翔んでいる、そんなデザインはそうしたいくつものプロセスでできあがる。
++++
トップライダーやドライバーは、突如、切れた走りをする。切れた走りというのはもちろん全周は難しい。どこで切ったらよいかということを本能でできるのがスーパーな人なのだ。切るべきところで切らないで、守り、守るところで切るという勝負センスのなさが運命を分ける。そういう意味で、『造本解剖図鑑』の著者は、業界トップの勝負師でもある。とにかく読んでみて。『ブックデザインミルキィ流』と合せて読まれるとばっちりですよ。
update2008/11/11
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豊崎由美。

+
自分がこれまで読んできた傾向の本と異る本を読んできた豊崎由美。さん。『正直書評。』の。がカッコ良い。姿勢が断定形。これはなかなか難しいことだ。人はそう言う。みんなそう言っているよ。自分の意見を反論されないようにして相手を苛めるそんな手法じゃない。私がこう読んだ。文句あるか。という姿勢。でもけんか腰じゃない。文学に愛がある。文字に愛がある。本に愛がある。自分が責任をもっている。だから他の人が違う見方をするのも許容する。間違っていたら謝る。
ウィキペディアの記事はちょっと重箱突きっぽい。豊崎由美が人を突くから、その豊崎はどうなのよっていう視点から書かれている。
++
頭の3行でぱっと本をとらえる。引用が上手。引用は手抜きの手法だと思っていたが、ちょっとびっくり。特に否定項に入っている、渡辺淳一、石原慎太郎の抜きが巧い。これ精読しているよね。駄目をしっかり読み込むプロ意識がこれまた凄い。
豊崎の書評から透けて見えてくるのは、作家の姿勢、作家の文学の姿勢。これはガイドとしてとても役に立つ。ネタバレされたら読み難いし。
+++
『正直書評。』
『そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド』『どれだけ読めば、気がすむの?』
豊崎さんの書評集に取上げられている、読書体験がほとんど被っていない。違う道を歩いてきたんだな。ちなみに豊崎さんは批評じゃなく、書評。差をわきまえている。だから筆も立つ。
被っていないけれど、資質は『夜想』な気がする。『クラッシュ』『異形の愛』大絶賛だし。話しているとゴシック、ヴィクトリアン小説好きそうだし…。豊崎読みを完食しようかと無謀な試みをスタートした。挫折すると思うけど…。まずは『文学少女の友』千野帽子『憑かれた鏡』ゴーリー。
もっとも『夜想』に近いところから読みだしたのだけれど、2冊とも面白い。特に豊崎さんが自書でピックアップした、『憑かれた鏡』のなかのストーカーの短編、『判事の家』が秀逸。ヴァンパイア特集の時にパスしていた。うーむ。恐るべし豊崎。
update2008/11/10
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退化論 ノルダウ 『谷崎潤一郎と世紀末』松村 昌家編

世界は退化期に入った?
+
夜想のヴァンパイアにもヴィクトリアンにも
キーとしてでてくるのが退化論だ。
+
ダーウィンの進化論自体が退化という概念を現実のものとしてとらえる契機になったこともあるが、ノルダウの退化論が、大きな影響を与えた。誤読されてヒットラーの頽廃芸術という考えを生んだともされている。
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ノルダウの退化論、日本に入っては谷崎潤一郎をはじめとする明治期の作家に退廃という感覚を植えつけた。退化論を読みたいと思っていたが、古い訳が一つあるだけで、読めなかった。と、思っていたら、『谷崎潤一郎と世紀末 』に訳がのっていた。
訳は本当は『変質論』と訳すべきと…。ここでもだいぶ誤読があったかもしれない。まだまだ研究の途についたばかりだけれど、ノルダウと谷崎の関係は面白い。そしてそこに日本の小説の近代の闇の原点があることが想像できる。
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イギリス、ヴィクトリアン期は、日本の明治に大きな影響を与えている。とくに闇の部分に。もっと見ていくと面白いだろう。
それにしても金融危機の影響はすざまじい。世界がもう一度、退化論にみわまれることがないことを望みたい。ダーウィンもノルダウも誤読されての影響の方が大きい。誤読されやすいテーマなのだろうが、今度の世紀は知性をはたらかせたいものだ。
安全圏を走っていると思ったトヨタまで危機を表明した。F1を降りるなんて言わないだろうな。逆効果だぞ。危機にこそ姿勢が問われるのだ。嘘でも車文化が…と虚勢をはるべきだ。そこからきっと何かが生まれる。
update2008/11/07
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夜想・ヴィクトリアン特集

10月1日にようやく『夜想』ヴィクトリアン特集がでる。
切り裂きジャックや都市伝説的なスィーニー・トッドのヴィクトリアン。
クリノリンのヴィクトリアン。
メイド服のヴィクトリアンというのもある。
19世紀の初頭に世界を席巻したかと思ったら、30年代にはもう経済不況になっている。飢餓の40年代などと言われている。子供がなかなか大人になれなかった。そんな最中、ヴィクトリアが即位する。37年のことだ。旦那のアルバート公も他所から来た人なのでちょっと人気がなかった。
1851年万国博・水晶宮の開催に関して、アルバート公が身体をはった。反対を押し切ってしかも寄付を募るような形でお金を集め、職人達に腕をふるわせた。もちろん自分もお金を融資した。万博は、700万人を集め大成功だった。アルバート公は1861年40代の若さで死去し、ヴィクトリア女王は自らが死ぬまで喪服で過ごしたという。
ヴィクトリア治世の時代は60年を越える。昭和が一言で言えないのと同じに、ヴィクトリアがこうだとはなかなか規定しにくいが、とても面白い時代である。新聞が発達して、新聞小説が生まれた。貸本屋にメイドさんたちが通っていた。汽車の地下鉄もあれば、水晶宮のようなガラス張りの巨大建築も在る。写真が流行って、自分の写真をカルトという手札に焼いて、交換っこしたりもしていた。格差社会でもあり、今の日本と重ね合わせられる部分もかなり多い。
で、いつものようにたくさんの撮り起し、描きおろしがあります。見てください。
update2008/09/10
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高原英理
『月光果樹園』の発売を記念してのトークショウ。

最近、司会をしながら話を聞いていることがある。ビスでの高原さんの話をずっと聞いていた。
落語で自分の声を聞くなという教えがある。芝居でも袖で台詞を復習すると咬んで巧くいかないという教えがある。客観と主観のやり取りの壷なんだろうけど。自分を聞かず脳から絞り出すようにして語る落語家もいる。無意識の意識、無意識のなかの言葉の塊。
そんなものが作家の手からも生まれているのかもしれない。推敲は必要だが、落語家は棋士といっしょで人前でそれを推敲する。凄いな。
そんな技は気の遠くなるような話で、人の前にいるだけでやっとの僕は、きっと司会しながら相手の話を聞くとまずいだろうな…とうすうす思いながらそれでも聞いている。ふっと別の所へ行くことがあってもっとヤバイ。高原英理さんは『夜想』ヴィクトリアンに素晴らしい原稿を寄せてくれた。ゴスのことと差別のことに関してだ。そんなことを予告的に話している時に、
ゴスとロリ。
そうした相反するものを混ぜる今の流行は凄いなとふと思った。ヴィクトリアンの階層の一番上位で着ていたクリノリンのような服。下層で働いていたメイドさんたちが着ていた制服。
同じ、ヴィクトリアンという括りで取り入れてゴスロリにする。階層というものがない国だからこその混淆なんだろうが…。
というようなことが頭に浮かんできた。
歴史をズラし変えるような力をもっている流行は、意外にも面白い展開をするのかもしれない。もちろん商売が劣化コピーを重ねて、それを受容したらあっという間につまらないものになってしまうのだけれど…。
update2008/09/04


