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宮西計三+薔薇絵

            もう見えることができないかもしれない現在形の頽廃。

昔、年下の友人が、頽廃って歌右衛門が鼻水を垂らしながらでも舞台に立ち続けるっていうことでしょう、と質問だか自問だかどちらの調子で言ったのか、今は覚えていないが、鼻水の歌右衛門が強く頭に残っている。歌右衛門を見はじめたのが遅かったので、言われるような名演技は見ていないが、妹背山婦女庭訓の定高を、前から三列目、花道脇の席から見上げたことがあって、確かにそうかもしれないというぎりぎりのシチュエーションだった。三階席や二階席、あるいは一階の後ろではもう感じれなくなっている、歌右衛門の演技するオーラを浴びた。全力で演技をしている歌右衛門は、まさに鼻水を垂らしそうな体力の衰えを隠しもしなかった。演技をするために恥ずかしくなっている身体を隠さない。晒したままにする。身晒れ(みしゃれ)という言葉があるが、まさに骸骨になってもかまわないいま、この演技さえすればという執念を感じた。
歌右衛門の晩年の舞台を頽廃とするなら、もうひとつ頽廃としか言いようのない舞台裏が進行している。それは、宮西計三 「見世物小屋」或は「舞臺裏」。宮西はフライヤーに自らをこう書いている。
  画業の道程をその「舞臺裏」へと辿るものであり、三流出版と言う「見世物小屋」的世界に在って稀有な本物たり続ける彼の表現を再確認するものです。そして新たな試みとして画業のみならずパフォーマーとしての多年に渡る活動にもスポットを当てた新たな"晒しの場"を提示するものであります。
歌右衛門と宮西計三を並べるのはまさに頽廃の極北…。表舞台と舞台裏、国の芝居の頂点に立っていた歌右衛門と、三流出版社を舞台にしていた宮西計三は、同じくして頽廃を戴冠していると…普通ならこうも言わないのだが、必要以上に自虐的に身を貶めて舞台裏に立ち続けている、覚悟すら見える宮西計三に、さらなる自虐を起させるほどの言葉となるとなかなか見つからない。さすずめこんな言い方になるだろう。歌謡曲を嫌悪し、一流を否定し、体制を破壊しようとする宮西の、それでいてときおり媚びたり、脅したりする卑怯さももちあわせている頽廃ものは、ありのままに、いやありのまま以下を晒すように、腹をめくって内臓を見せるかのように舞台裏の楽屋に立ち続けている。
 そう宮西計三は、会場のショーウィンドウで会期時間中絵を描いている。肖像画家として。そして薔薇絵は、まさに一幅の薔薇の絵のように、崩壊した伽藍のように居続けて、踊り続けている。宮西計三がナハトいう昏さに仕込んだのは、策略の伽藍であり、崩壊した修道院の伽藍だ。その崩れかかっている伽藍に薔薇絵の踊りの存在はもっとも似ている。…いる薔薇絵は、ずっとずっと踊り続けている。屍体を踊っている。宮西計三の絵に捧げるように。薔薇絵の乾いた白粉が、仄かに桃色をたもっているのは、白に混ぜた顔料なのかはたまた、まだひそかに頬に生気が残っているからなのか? いずれにしてもクノップスの絵画に描かれたようなこの世ならぬ頽廃の女性は、踊っている。ずっとずっと。踊りは舞台でお客のために見せるものにあらず、という考え方もあるが、お金のために身を晒して芸能者であるがゆえに踊りだという覚悟も必要だ。土方巽は自らの踊り子にそう実践させていたではないか。薔薇絵の仄かな生気を保った踊りは至高のものである。
 鉄の板と鎖で構成された仮の廃屋伽藍に、また今日も枯れた木の瘴気を放たれ宮西計三と薔薇絵が楽屋裏という栄光の舞台に立つ。頽廃は現在形では体感できないもの。歌右衛門の頽廃も大人になってはじめて甦ってくる体験だ。しかし体験なしでは記憶に甦ることもない。今、薔薇絵と宮西計三の頽廃を脳漿に焼き付けて置くことを是非に薦めたい。どうだったかは、あなたが屍体となって焼かれる寸前に甦るかもしれない未生の答えだから。

update2010/07/01