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小町村芝居正月 国立劇場 2008年1月3日~27日

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菊之助が何かに邪魔されたりしなければ玉三郎に続く次代の女形になるだろうと、小町村芝居正月を見て思った。思ったという意志よりも先に菊之助の演技がそう確信させる。

歌舞伎は、その時々の座頭の演出や工夫を加える芝居だ。だから時に、ある名優の演技が目立つ用に変えたりもしている。陰で旦那芝居と言われる由縁だ。
長い間継承されてきたから守れ、駄目だという話ではない。どの部分が全体を考えてされた合理的演出か、どの部分が旦那の我が侭と自分の名演を見せたいがためにされた演出かを見極めないと、変更はできないということだ。
パリだから動く距離を減らしてこっちからでましょうよ、という演出はなしだ。そんな勝手をしたらさらに歌舞伎が壊れてしまう。
歌舞伎が現代も上演されているという部分で、現代演劇なら、役者の我が侭でない演出というものが生かされると良いだろう。もともと歌舞伎はそうしたものを含んでいる。変化のなかで混乱しているだけなのだ。
菊五郎劇団が、今から219年前の正月芝居『小町村芝居正月』を復活し上演した。復活とは言え、補綴されて新作に近いものになっている。菊五郎、菊之助という旦那たちを生かしながら、現代演劇として通用する演出もされていて、非常に面白い。猿之助のように新劇、宝塚手法を取り入れて(でも宝塚も元々歌舞伎手法だけれど…)見やすくするのも一つの方法だが、菊五郎劇団のように歌舞伎の伝統的な作法の中で、演出を統一させて現代劇とする方法もあるのだと改めて思った。この方法が生きるのは、蜷川幸雄の舞台でも好演した現代の役者としての菊之助の存在が不可欠ではある。
『小町村芝居正月』は、正月芝居にのっとって前半が時代物、後半が世話物の作りになっている。前半は菊五郎が活躍する。菊五郎さん、梅幸さんが生きておられた時は、やんちゃな次男坊見たいな感じで、劇団も斜めに見ていたようなところがあって、でもそれが江戸の遊び人風で、とっても素敵だった。最近は、お父さんとしての風があり、菊之助の冒険を座頭として支えてやる、という感じで、また味わいがある。あれっ?この芝居、菊之助の芝居じゃなかったけ?と前半、訝しげに思うほど、菊五郎さん頑張っているが、後半になるとぱっと菊之助に渡して支える方にまわる。『十二夜』でもそうだったけど菊五郎さん、菊之助さんが大好きなんだなぁ(演劇人として)とつくづく思う。
菊之助は、演出の目ももっているし、現代劇の前線で活躍できる役者だし、劇団をフルに使っても良いのだけれど、オーバー・ワークにならないよう、役者としての魅力を発揮できるよう、菊五郎さんがサポートしている(ような気がする)。


時代物と世話物の間に、『深草の里の場』という長唄舞踊が入っていて、これがまったりで絶品。松緑が進境著しく端正な踊りを見せ、元々踊り上手の菊五郎が少し気を入れて踊り、菊之助が菊之丞の振りよろしく抑え目のたおやかな、それでいて若さを感じる踊り。梅幸さんを少し思いだす。
一転、後半は、女郎狐の菊之助が大活躍の世話物になる。復活狂言なので、菊之助は先代の演技を倣うことなく自分の狐を演じることができる。菊之助は歌舞伎らしい狐の型だが、どこか色っぽく、そしてみずみずしい狐だ。市川猿之助が国立劇場で宙乗りを復活させ新しい狐・忠信を演じて一世を風靡したように、菊之助もまた平成の新しい狐演技を作り出したのではないだろうか。他の役の狐も見てみたい。無理難題だけれど、静、忠信を早替わりで両役つとめるとか…。とにかく見たい。女郎狐の早替わり、ほんとにおきゃんで美しく、久々、ほれぼれする役者演技に出会えた感じだ。
玉三郎の後は、菊之助で決まりなんじゃないだろうか。
女形は時代の匂いがしないと時代をとれないものだ。もちろんじゃまが入らなければの話だけどね。玉さんだってもの凄く、苦労したもの。


update2008/01/31

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猫のホテル 表現さわやか『ポエム』

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最近
劇団内ユニットにおめにかかる
猫のホテルだけでなく
他にもある。

それが大体がお笑い系なのだ。
ストーリーは緩く組まれているが
コント集が連なっている感じだ。



演劇は見て、考えて
そして自分が変わるものだと
思っていた。

『ポエム』には
向こうからこちらに来るメッセージはない。
向こうからメッセージが来るんじゃなくて
こちらのメッセージを吸い取って成立している。

観客は
うん、そうだ、そうだ
ということのために劇場の暗闇に入るのだ。

update2007/12/06

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野鴨

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イプセンの『野鴨』には、グレーゲルス・ヴェルレという正義をかざして、人にその正義を強要する人物が出てくる。欺瞞に充ちてはいるが、平凡では幸せに暮らしている一家をクレーゲルスは、正義の強要によって崩壊させていく。でも崩壊を意図した訳ではない。
その正義の振りかざし方は、何か今の日本にとても似ていると思う。アメリカの感覚が写ったのかとてもクレーム好きになった。それも無為のクレームだ。建前の…。

どうにか暮らしている家庭が崩壊するように、集団が崩壊するまで正義君としてふるまう。
あなたのためを思って言っているの。
全体のためを思って言っているの。
それは違う。自分のために言っているのだ。正義ではない。プロデューサの笹部は正義の欺瞞を見せようとしてこの芝居を作ったように思う。
でも『野鴨』に答えはない。

メジャーリーグプロデュース『野鴨』
2007年11月1日(木)~30日(金)
シアター1010

update2007/12/05

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野鴨 2

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野鴨は撃たれると水の中に潜り込んで
水底の藻や水草なんかを手当たり次第にかじりついて
二度と浮き上がってこないようにする

そんな引きこもりのような
鬱症のヤルマークの

妄想のような
夢を


私も抱いていたような気がする

できないと
他人のせいにして…

update2007/12/04