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『 Le Sous Sol』 ピーピング・トム

『 Le Sous Sol』 ピーピング・トム 世田谷パブリックシアター 

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80歳を越えるマリアさんは、26歳の時に第二次世界大戦で旦那を失っている。死んで土の下で若い姿の夫と再会をする。キスをしたままで唇が離れないまま二人のアンサンブルは続いていく。ホントにキスをしている。倒れたり、のしかかったり、交接しているように見えたり。舞台は木の根が飛びだしている地下の部屋。土が流れ込んできていて『砂の女』の設定のようにも思える。半分埋もれた部屋にソファや机。
マリアさんはどんどん若くなっていって下着で踊っているオペラ歌手の乳房に食らいついて赤児になる。でもセンセーショナルな感じはしない。土の匂いが客席まで臭ってくる。ベルギーだ。ヤンファーブルの展示を村中でやったベルギーのワトー村の土の記憶が甦る。

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それぞれが振付師でもある3人のダンサーとオペラ歌手、息子を失った衝撃から立ち直るために40歳をすぎてから演劇や舞踏をはじめ女優となって80歳のマリア・オタルからなる
アーティスト・ユニット「ピーピング・トム」。その存在自体が驚異だ。
コピーにコピーを重ねて凌いでいる時に突然、突きつけられると衝撃を覚える。
アラン・プラテルのカンパニーなどでも活躍していたダンサー達が集まって、意志でこのセッティングをしている。それが分る。

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地面の下にある部屋で、死んでしまった人間が、死んだ時の歳で再会したらどんなことになるのだろうかというのが『Le Sous Sol』の設定である。生きているときには、うまくコミュニケーションができないけれど、死んだらどうなるのか。生きるという性(さが)を外した状態で部屋に閉じこめられた時、原初の動物にもどったとき、人は他人と親密になれるのか。作品は、警句でありながら現在の荒涼とした人間関係への探求でもある。
『Le Sous Sol』は、三部作の最終作。前作は家族の対立を描いた『 le Salon』。生きていると対立ばかりだけれど、死ぬと意外とそうでもないかも…。というのがそもそもの始まり。他人に命令されたり、規制という枠の中でしか動けない人間が次第に解放されていく。死んでも規制はついてまわるのか…。そうだろうなぁと思ってしまった。死んで自由になるというのも幻想かも。死んでも自由は獲得しなければならないものなのだ。

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日本から参加したシニアのパフォーマーたちも素敵だった。きっと自分の体験も織り込んで動いているんだろうな…。
お互いの身体の一部、例えば唇や頬っぺたなど、をくっつけたまで踊っていくという振付は、踊りや演劇の舞台で見たことのないユニークなものだけど、凄いのはその振付はテーマに沿って作られることだ。前作の『 le Salon』ではまったく使っていない振付だそうだ。離れなれないほど親しい状態になった時、親子や恋人や愛人を含めた三角関係がどうなるのだろうかということの表現のために「くっつき」の振付は作られている。

update2009/02/09

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朗読劇「地下の国のアリス」

夜想の夕べのために
組まれたユニットで
常川博行は、アリス役の田村渚と
「地下の国のアリス」を朗読します。
いや
朗読劇にしました。


良かった!

秋葉原で活躍の田村渚さんも
地下の国のアリスらしいアリスを演じてくれて…

本を読むという客観部分と
中に入ってキャラクターになるところが
巧く混合されていて
さすが本好きの常川さん。

芝居はなることを巧さとしますが
本をもって読んでいるところを残しているのがとてもカッコ良い。
またbisに来て欲しいな…。

いやいやまずは、31日にもあるのでぜひぜひ。

『地下の国のアリス』は、アリス・リデルがお話を気に入って、書いてプレゼントしてと言われたことに答えて、手書きしてアリスに贈ったものです。「不思議の国のアリス」は、何度も書き加えられて出版しています。

update2009/01/26

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筑紫哲也 井上陽水 川島裕二

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筑紫哲也の追悼番組思わず、じっと見てしまった。
最後は井上陽水の『最後のニュース』、君にグッドナイト。君にグッドバイ。
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最近のスタイルの弾き語り。キーボードは最近のキーボーダー小島良喜じゃなくて川島裕二だったような…はっきりとは分らないけど。
関係していたEP-4の、そして安全地帯の隠れキーボード、そして井上陽水のアルバムのアレンジャー+プレイヤー。数多才能をもちながら何度か収監されでる度に陽水がアルバムに参加させてきた。banana(川島裕二)のために出したようなアルバムもある。筑紫哲也とのお別れに川島を連れてきたことに深い感慨を覚えた。
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朝日ジャーナルでバイトしていたときのエース・ライター。そしてその時、僕は田中角栄裁判の傍聴券とりの並びをした。券を渡したのは立花隆。2次試験まで通り切り札の推薦状2枚を持ちながら朝日新聞社の試験に落ちた僕は、そののち何年かして夜想を作った。その頃、筑紫哲也は朝日ジャーナルの編集長として、新人類、若者の神々というシリーズで時代をリードした。80年代僕は、その取上げられたようなクリエイターと仕事にしていた。EP-4というバンドのカセットブックやレコードを出版した。ツアーにも参加していた。川島裕二は。EP-4で信じられないほどの才能を煌めかせていた。
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80年代以前の朝日ジャーナルは独特のカリスマ性をもっていた。試験を受けた僕にはそれが左に片寄っているとは思えず、むしろ朝日新聞を含めた新聞の右傾化を心配していた。ジャーナリストを目指していた僕は、朝日ジャーナルしかないなと子供心に思っていた。その朝日ジャーナルの姿勢を受け継いでいるのが筑紫哲也だと思う。もちろん当時のジャーナルにとって筑紫哲也はむしろ軟弱な部類に属していたのだが、今や硬派になってしまったところに日本の地盤液状化の現象が見て取れる。最後のメッセージも癌に侵された日本への警告を投げていた。敗戦をベースにしたジャーナリストというのは、時代的にももう出てこない。戦争を体験的なことを含めて、アプリオリに悪いという感覚で語れる最後の世代になってしまった。戦争が悪いかどうかということを論じなくてはならなくなっているのだ。それは人を殺して悪いかどうかを論じなければならなくなったということと似ている。論じなければならないように時代が変わっているのに、一向に論じようとはしない。たぶん日本の液状化はもっとすすんでいくのだろうと思う。どうするのか。
筑紫哲也も言っていた、状況が分っても治療は難しい。それでも状況はきちんと把握すべきだと。

update2008/11/12

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ベニサンピットが

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なくなる。


下町にあった染料工場の倉庫を改造してできたベニサンピットが閉鎖になるらしい。詳しい事情は、まだ分らないが、そう言えばベニサンピットにスタジオがある衣裳作家が、移転案内を送ってきていた。劇団桟敷童子の新作情報にも、最後のベニサンピットでとあった。
世田谷パブリックシアターに、アッカーマンの『1945』を見に行ってやはり、ベニサンピットのことを考えてしまった。

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ベニサンピットがあって、TPTというプロデュース集団が生まれ、そしてそこからロバート・アラン・アッカーマンが率いるthe companyも出てきた。アッカーマンもベニサンピット廃業を嘆いている。(http://ameblo.jp/ackerman/)
以前のバブル崩壊で、西武百貨店のスタジオ200が閉鎖になったり、美術の大きなギャラリー、日鉱ギャラリー、佐賀町エキジビットスペース、川口現代美術館が閉鎖になったことと、それがいかに次の世代の育成を妨げたかを思いだした。
あ、そう言えば、ニナガワスタジオもベニサンピットをベースに若手を鍛えていた。芸術には、生まれる倉庫のような場所、実験的に見せる場所という懐胎場が必要で、それは相互に支え合って成立していかないと駄目なんだと思うが、経済が破綻する度に、閉鎖に追い込まれる。
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『1945』は世田谷パブリックシアターで上演された。芥川龍之介の『藪の中』そしてそこから派生した黒沢明の『羅生門』を下敷きにした戯曲である。「真実は語る人の立場によっていかようにも変わり得る」というまさに今世界を席巻している大きな問題をテーマにしている。
大量殺戮兵器なんてなかったじゃないか!とオバマはマケインを演説で攻め立てた。なんだ知っていたんじゃないか。仕返しをする相手をアフガニスタンは大変だから、短期間で攻め落とせるシミュレーションができているイラクにした戦争。ブッシュの気分によって行われた戦争なんだから…いいかげんにしたほうが良い。ベトナム戦争と同じようなことになっている。金融危機もそうだけれど、どうしてアメリカは、そして人類は同じような過ちを繰り返すのだろう。2度目はもう失敗の構造が分っているのだからしなければよいのに。
オバマは大統領に就任した時に、イラク侵略に対する言動を一転する可能性がある。大統領選挙での言動が、アメリカの大儀にいかにすりかわっていくか見物だ。もし、間違っていたのだから、イラクにもフセインにも謝る、戦争を終結する。などともし言ったら世界は変わる。無理だろうけどね。

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TPT(ルヴォー)やthe company(アッカーマン)の正統派演劇の力には、いつも凄いなぁと感心するのだけれど、少しだけ、今の僕には違和感があって、その違和感は、ちょっと贅沢な望みなのかもしれないけれど、文学や芸術の正統的と言われている見方にもちょっとある。まだはっきりと意識化できていない。構造だけでは示せない何かを表現して欲しいというようなことかもしれない。『1945』も非常に良くできた戯曲で、テーマもこちらが見るべき視点も用意されている。感動もするのだけれど、何かずれがあるような気がする。
舞台を見続けながらそれが何であるかちょっと確かめたい気がする。

update2008/11/09

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紙モノカタログ 倉敷意匠

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マスキング・テープ

は、もちろんだけれど、封筒…いろいろ

今、自分が使っている感じの、もう一つ先な感じ。

紙の少し擦れた使用感を付加した感覚。

コンセプトではなく使用感。いつもという常態。

倉敷意匠はデザインに優れているが、地に足がついている。

もう駄目な視線を気にせず、駄目なものの行く末に興味をもたず
自分の見る感覚を大切に生きてみたら…と言われた。
さもありなん。
もっともっと良く見ていきたいと思う。そして動向を気にせず。

http://www.classiky.co.jp/



update2008/10/19

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近代能楽集 深津篤史

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芝居を見て集合に遅れた茶番頭が、押っ取り刀で駆けつけると、もう14煎までいっていると…。おや、番頭いらずです。
演劇見て遅れたと詫び。何をと聞かれたので、三島由紀夫『近代能楽集・弱法師』を深津篤史の演出で見てきたと答える。あ、桃園会の深津さん…とパフレットを見ながら、初めて会う女性の編集者が「小劇場が面白いって連れられて行ったんですけど、なんかきんきんするような声と演技になじめなくて、でも桃園会は面白くてかよってます」とのこと。
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新しい『雪片鳳凰単』を用意してもらいながら、「テンションを上げさせない演出は面白いですよね。盛り下がるというか…でも三島由紀夫の考えているあるいは、時代としてもっている近代という概念が浮き彫りになっていてびっくりしました。で、深津篤史は三島の近代性が好きじゃないですよね…。そこから変わるべきものとして今の演劇をとらえているような気がする」と、一気に話して、茶海に湯を充たした。前回の新国立劇場の企画、岸田國士の『動員挿話』を深津篤史が演出したのも面白かった。おそらく岸田國士には何かの融和感をもっていると思う。

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新劇も小劇場もそれぞれの独特の台詞回しと演技のテンションをもっている。その根元は演劇が近代化を果たした頃まで遡れる。新劇、アングラ、小劇場…。もちろん歌舞伎だって新派だって独特の台詞回しだ。その回し方に時代時代が反映されている。
演劇は、歌舞伎、新派、新劇…と次々にカウンターをかけながら変化してきた。小劇場以降、まだ名前のつくような流れが出てきていないと思ったが、ようやく新しい世代が台頭してきたように思う。何と呼ばれているのかちょっと分らないが。
普通さ、日常性…そんな自然さのある演技で不条理な世界観を描いている。しかしその不条理な世界観とは、現実に生きている時に見え隠れする体験したことのあるような不条理のような気もする。

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三島由紀夫の近代性。なんとなく最近、気になっている。それは谷崎潤一郎などの絡みからも気になる。ここを解かないと現代の意欲的な小説や戯曲の評価ができないのではと思ってみたりもする。深津篤史の演出は、結果として三島由紀夫のもっている、ちょっと奇形な近代性が伺える。三島由紀夫は、存在していない階級というものに憧れ、その階級の頂点に君臨したがった。君臨したいのだが、その政治とか経済とか身分とかに守られているはずの階級を、一気にひっくり返す粗野な肉体、卑しい感覚というものに畏敬した。卑しめられる自らを想像して打ち震えた。階級に対する優越感と劣等感、その交錯する変態性が三島であり、三島の近代なのだ。

update2008/10/16

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時間の破片 - Fragments of Time

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時の破片
僕は5時間半、
時を砕かれ続けた
光の錯乱に同居する。

光の錯乱の中にいる 勅使川原三郎
光の錯乱を起す勅使川原三郎。

受動と能動が交錯する、行為。

update2008/10/04