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『五右衛門ロック』 新感線
80年結成の新感線。
今だにやんちゃなパワープレイをする新感線。頭が下がる。さすがに古田新太のパワーは落ちぎみだけど…。もともとバイ・プレイヤーなので主役をすると照れが出るのかもしれない。
群舞の役者たちのジャンプの高さにちょっと驚く。そんなにパワーを出さなくてもコマ劇場なら効果で充分見せられそうなんだけど…原田保の照明もメタルの生演奏もパワフルなんだから。
いや、そうじゃない。役者で見せるんだ。役者のパワーで見せるんだという新感線の意気込みがいいなぁ。普通、四半世紀以上やっていたらやっぱりテクニックでかわそうとするだろうに。
ベテランになった時、どうするか?
これは大きな問題だ。
野茂英雄はコントロールを良くするためにフォームを変えた。
村田兆治は今だにまさかり投法でシニアで活躍している。56歳で140キロ。でも大リーグの始球式では緊張して120キロ。このあたりにも考えることがたくさんある。野茂は大リーグで投げ続けようとした上での決断だから…。
歌舞伎は、歌と舞いと演技でできている。現代の歌舞伎を標榜する新感線も、同じように歌(メタル・ロック)、ダンス、演技という三つの要素を軸に舞台を作っている。ゼロから物語を作りはじめ、曲を作り、踊りの振りを作る。舞台では、バンドが生演奏をし、登場人物がそれぞれ場面ので歌い、ダンスを踊り、演技をする。それぞれの要素すべてをオリジナルで作り上げ、コマ劇場のような大きな舞台で見ごたえあるものに仕上げるのは、とてつもないエネルギーと創造力とスタッフ力が必要だ。新感線はその実力を備えている日本でも珍しい劇団だと言える。
新感線は、上演の度に新しい試みをする。
今回は、出演者の全員がストレートな主役的な演技をするという挑戦をしている。いつもなら肩透かしのようなギャグを連発して観客の期待の裏切りながら物語を進めて行くのだが、今回はそれぞれの役者がカッコ良い演技をしている。現代ではカッコ良く見える演技はなかなか難しい。演じる自分も恥ずかしいから。
そこに恥ずかしがらない北大路欣也をゲストに入れた。古田新太、橋本じゅん、 高田聖子たちの劇団員も珍しくストレートプレイ。敢えて役者の力を真っすぐにぶつけ合わせた演出は、もちろん大成功している。特に森山未来の演技がきらきらと輝いていた。森山未来は、きっと肩透かし的な演技をしたがる役者だと思う。たとえば松田優作の斜に構えたスタイル…。しかし、いまは、ストレートな演技を磨くとよいと思う。今回の演技のように。
森山未来はダンスの感覚があって、なおかつどこかに変態チックな身体感覚がある。身体的な特質を全面的に出して、カッコ良さを追求したら大きくブレイクすると思う。(たぶん世の中的にはもうブレイクしているのだろうが…)
市川染五郎もゲスト出演した時、生き生きとしていた。今、新感線は役者をブレイクさせる力を持っている。かつて蜷川幸雄がもっていたような力を…。
update2008/07/21
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『Root Beers』 KAKUTA

いつもは女子目線で描く桑原裕子が
男目線で描いた『Root Beers』。
アメリカのコリアンタウンのモーテルに、アメリカまで人殺しに遠征して来たヤクザたちのグループがたむろしている。でも様子が少しおかしい。ヤクザの親分が車にはねられ、ルート・ビアを飲んでひっくり返ってしまったからだ。心配そうにベッドの親分を見る子分たち。部屋にはその他にヤクザたちに監禁されている二人の男たちもいる。一人は親分を引いた男、もう一人は親分を売ろうとした情報屋。物語はそんな始まり方をする。
目が覚めると親分は記憶を失っていた。そして人格が良い人に変わっていた。親分は、記憶を失ったことを子分たちに気づかれないようにしならながら、監禁している男たちと話しをする。少しずつ自分を取り戻すために。冬子という妹がいて、唯一、心を許しているらしいということが分ってくる。
親分は、つぶやく。「話せる人が一人いて良かった」と。
一人、話せる人がいれば良い。そしたら生きていけるという、この感覚は、逆に、携帯サイトですら相手をしてもらえる人が居ないという感覚の裏返しである。
桑原裕子の書く親分はそれでも死にに行くのだが、それはどこかでこんな僕でもCCで廻ってくるメールが一つあるだけが救いかな…と言って突っ込んでいく彼の台詞と行動に重ね合わせられる。桑原裕子はこの芝居を、2004年に上演しているのだ。情報が氾濫しているなかでの孤独。コミュニケーション不全。何となく分る気もするが、どうしてこんなところにまで来てしまったのだろうか、日本は。
もう一つの視点で面白いのは、女性目線でやって来た桑原裕子が、男目線で書いていることだ。女性の目から見た表現は、これからの主流になるだろう。もちろん現実社会はそんなに簡単に変換はしない。しかし人形でも、小説でも、女性目線のものが多くなった。ふと思うのは、男の欲望表現はどうなるのだろうか? ということだ。欲望とは生き方ということも含めてだ。そこにもし女子性があればそれも含めてだ。誰もが触ろうとしないこの時代の男目線。それを桑原裕子は描いていると思う。
update2008/06/23
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『失われた時間を求めて』 阿佐谷スパイダース

『ドラクル』の時の作・演出の長塚圭史は一体、何だったんだ?
海老蔵の我が侭に負けた? それともあれが本来の力?
阿佐ヶ谷スパイダースは、作・演出、そして俳優もつとめる長塚圭史が中心の3人のメンバーで構成された演劇ユニット。その度ごとに役者をプロデュースしてくる。日本の劇団は、どちらかそいうと家族制度のようなところがある。お父さんが作・演出。お母さんが看板女優。喧嘩したら劇団ごと解散になる。他のメンバーはたまったもんじゃない。
『失われた時間を求めて』は、一つのベンチと、それが置かれているどこだか分らない場所、そして不可解な話をし、行動をする人たちの台詞によって成立している。
ずいぶん前にいなくなった猫を探し続ける人、その行動を探って手伝おうとする女性…。猫を探す人の兄弟もでてくる。人を殺したいというネガティブな妄想を抱き続けている男は、落葉を拾ったりばらまいたりナイフを振りかざしたりする。
この演劇は「動物園物語」(エドワード・オルビー作)の設定を使っている。もしかしたら「失われた時を求めて」(マルセル・プースト)のテーマも使われているかもしれない。
設定をパクるというのは、大正時代から現在まで平気で行われているが、いかがなもんか。
それでも『失われた時間を求めて』は面白かった。前衛の匂いすらしなくなった日本で、これは前衛の部類に属する。
記憶と時間と空間というものは、人間の主観によって大きく異るものだ。時代や社会の状況によっても異る。そのずれを描くことで社会格差などを鮮やかに浮かび上がらせるのが、「動物園物語」や「失われた時を求めて」だった。
その設定を現代の日本に置き換えるとどうなのか? というのが長塚圭史の今回の実験ではないだろうか。格差は大きくなり、表の顔と裏の気持は遊離しているにも係わらず、非常に平板に見える姿をしている今の人たち(それは年配者を含めてのこと)が、意識下の最も気になっていることがらによってコミュニケーションするとどうなるか? 実験に答えはない。結末もない。
それでもよいのは、実験の果てに見えてくるものが、かみ合わないままどこにも到達しない関係だからだ。それは、今の現状を見事に反映している。
この演劇を不条理と言うのは簡単だ。でもそうじゃない。不条理にすらなれない、やりきれないさ、だらっとかみ合わないどうしようもなさだ。失われた時間は永遠に失われ、回復の兆しすらない。やり切れなさの向こうにあるのは何だ。
僕の脳裏には白い絶望という言葉が浮かぶ。
update2008/05/18
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『毛皮のマリー』 主演・演出/川村毅 パブリック・シアター
呪縛から逃れる。

この5月4日で、寺山修司が死んで25年になる。
寺山修司が死んで、時が止まっていると言ったら、嘘になるかもしれないが、亡くなられた時のことは、鮮明な感覚として残っている。寺山修司後を生きているという感は今も強い。
今回の『毛皮のマリー』は、森崎偏陸の企画で上演された。
偏陸は、『毛皮のマリー』の初演(1967年)の頃に演劇実験室・天井桟敷に入り、音響や映画の助監督、美術デザインなど、あらゆることで寺山修司の陰で右腕になってきた。「ローラ」という寺山修司の映画では、今でもスクリーンから裸体で飛び出すという役を演じ続けている。
毛皮のマリーを演じるのは第三エロチカの主宰・演出の川村毅で、
第三エロチカはたしか1980年頃の結成だと思うが、俳優としてもユニークな演劇人だった。よく第三エロチカを見ていたのは、新宿アートシアターで、狭い劇場に身体を斜めにして立ったまま(足の位置が床に描いてあってそこに足を乗せて、そのまま終演まで動けない)見ていた。面白かった。
ちなみに新宿アートシアターは飴屋法水の『グランギニョル』が、1984年に「ガラチア」85年に「マーキュロ」を上演していて、これも酸欠になりそうな客席で見て、時代が変わるなと実感した。寺山修司は1983年に死んでいるから、自分にとっても時代にとっても大きなオーバーラップが行われた時だったのだ。1984年はバブル経済の突端であり、ヨーゼフ・ボイスが来日した年でもあった。第三エロチカは「コックサッカーブルー」という代表作を上演している。
川村毅、8年ぶりの主演だということで、しかも寺山修司にオマージュを捧げると公言しているが、演技が古く、かつての新宿アートシアターなら名演なのだろうが、道具もミニマルにしたシアター・トラムの舞台では、ちょっと空回りしている。
僕は、寺山修司に言われた、上演こそすべて、戯曲には寺山修司はいない、という言葉がトラウマのようになっている。寺山修司の演劇は、天井桟敷の上演、寺山修司の演出あってのもので、それが他人の手によっては存在的に意味がないと、寺山修司に信じ込まされてきた。
もちろん演劇において、上演、演出というのは、印象のかなりの部分を占めるという常識は分った上で、やっぱり、ワークショップをやって動きを作りながら台本を書いて、当て書きをしていた寺山修司の戯曲は、寺山修司の一回性の上演ごとに、演劇を成立させてきた、その瞬間だけのものだと思っている。
それとは別に…。ようやく別にというスタンスを少しとれるようになってきた。寺山修司のもっている戯曲の、何かということは見ていきたいと思うようにもなった。それは山口小夜子さんが朗読パフォーマンスをしていたのが、寺山修司の詩であるということに関係している。
寺山修司は、短歌であり、俳句であると思い込んでいたので、詩と向き合うことがなかったのだ。生きた生体としての寺山修司が僕の中に行き続けているので、なかなかそこから逃れられないが、それでも、森崎偏陸や川村毅がトライしたように、戯曲をもう一度読むということは、寺山修司という現象と無関係ではないと、思えるようになるかもしれない。
「毛皮のマリー」は、たしかに女優を気取る男娼の耽美な部分に目が行きがちだが、嘘の母子という関係にこそ寺山らしさがある。寺山修司は、時代の表層を引用して、そこに生成している嘘らしさを、アフォリズムのように晒して見せた作家である。その見方自体に、寺山独特の表現があったのだが、川村毅の演技が空まわったおかげで、台本の構造が良く見えていて、僕には面白い体験だった。
呪縛から逃れることがそれほど良いこととは思わないが呪縛から逃れて見る。そんなことが少しできるようになるかもしれない。
update2008/05/07
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野波浩 陶肌曜変


コスタディーヴァには、新に焼かれた恋月姫人形の写真が
マッティナには野波浩の代表的作品群が
納まった。
かなり大規模な写真展になる。会場に合わせ額も焼きも新調された。
update2008/04/11
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『追奏曲、砲撃』 桃園会 深津篤史/演出

演劇という形式は、大きくは新しくならないのではないかと思っていたが、そうではないようだ。
桃園会の深津篤史のアフター・トークは面白かった。
ニュアンスとばし
という稽古。いわゆる役者の過剰な張りをなくして、台詞による演劇の原型を
統一のトーンによって静かにアンサンブルしようとする意図があるのだろう。深津篤史には。
指揮者が暴走する演奏者をなだめているような…。
ゴロを捕る名手が試合前に簡単なゴロを投げてもらって何度も捕るような。
ミートの良いバッターが、インパクトポイントのあたりをゆっくり、ゆっくり素振りするような。
タイトルの追奏曲は、カノン。砲撃もカノンから撃たれる。
カノン形式で演出される演劇。
祖母が亡くなって、相続の問題が発生して、敏弘は何十年ぶりかに父に電話をする。父は昔に家出をして今は、沖縄にいて新しい家族がいるらしい。どうも一樹という兄にあたる人もいるらしい。
場面は、黒い大砲の口径のようにも見えるセットを行ったり来たりするたびに、大阪の繁華街と沖縄の海の見える父親の家になるらしい。
見ている限り、それはあくまでも「らしい」であって、「~だ」とは思えない。台詞やシチュエーションがリフレーンして連なっていく。少しも先に進んでいるような感じはしない。
映画「昨年マリエンバートで」が、同じシーンを少しずつ変えて繰り返していくうちに、事実が登場人物にも観客にも分らなくなっていくという表現をしていたのを思いだした。でもマリエンバートのように硬質な感じではない。ふわっとした、何となく間合いがとれない感じだ。
丸いカウンターのような、全体を見ると巨大な大砲の筒口のようなセットを、向こう側に移動して大阪になり、また移動すると沖縄になる。
+
父親との距離、友達との距離、在ったことのない母の距離…そうした距離が実に曖昧なものであるということを、曖昧な感じで表現している。世界は多くの価値観によって成り立っているので、人によって違う世界に見える。だが、個人から見れば偏見だろうが何だろうが、世界は一つに見える。それが少し以前の見え方だった。今は、個人から見える世界も、はっきりとせず揺らいでいる。そんな感覚を作・演出の深津篤史は描いているように思う。
++
いわゆる演劇的な台詞の張りかたをせず、誇張した動きを抑制して、あたかも日常ですらっと出てくるような言葉使いをしながら、その背後に、群衆蠢く社会の中で、膝を抱えているような孤独感を強烈に醸し出している。
+++
こういう演出、描き方もあるんだなぁと、驚いた。

update2008/03/31
stages
『だるまさんがころんだ』 燐光群 再演

台本をいまに書き換えたのかな…あ、全然、書き換えていないんだ。
パンフレットを後で読んで驚いた。
パンフレットには、
今回の上演は、まぎれもなく「今現在の劇」でありながら、初演時である2004年3月という時間、時代をも、確実に舞台上に刻印したいと思います。とある。台本は変えていない。なのに前回見た時よりも、さらに今を感じる。
語り役をしていて、父の無言を描いた小説で賞をとった妹が、突然、通り魔に殺される。一昨日、昨日、今日と、誰でも良かったという殺人が続いて、ここに描かれているものは、何だろうと思ってしまう。問題が起きている地点からは、どんどん問題の芽が放射状に拡がって、別の形になって、そして違う形でまたネガティブに爆発する。
私たちが作るものはプロパガンダではない。演劇である。でもその区分けはどうでもよいことだ。
坂手洋二はそう語る。
+
プロパガンダ、あるいはドキュメントを現実として捕らえる行為、それをそのままに出すだけでも演劇としてしまう方法を坂手はもっている。それはあらかじめ作家の側が妄想した物語によらないということだ。現実によって作るということだ。
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その上で、演劇として収斂する物語を織り込んで(トッケイという怪物)『だるまさんがころんだ』ができ上がっている。
その織りなしのギリギリ性を保って、何度でも繰りかえせるのは坂手の才能だし、他に見たことがない。
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八百長のないゲームは、こちら側の観客や解説者(舞台なら評論家)の想定する物語とまったく相反するところで成立する。突然、終わったり、一方的だったりする。過剰な物語と、解説によって毒されてしまっている感覚から、早く逸脱するべきだ。現実は、あっけなく終わるほど、残酷で魅力的だ。坂手の向っているのは、そんな現実なのだ。
++++
それでも演劇が欲しい。坂手はそれができる数少ない演出家の一人だから。
トッケイは、かちかちと舞台になり続けている、地雷の時限装置の時計の音。その時の象徴。
地球上の地雷の、時計の音は、
今、爆発するしかない巨大な怪物になってしまったよ。
それに対してどうするの?
そういうメッセージが込められているのだろうけど、さらに、坂手に何かを言って欲しかった。
彼くらいしか言えないのだから。
update2008/03/29