pickup

rss

    news

  • editor's talk

夜想#バンパイア

『ゴシックスピリット』(2007)高原英理

DSC03893.jpg
颱風の日に拾った嵐が膝で寝ている。

読んでいるのは『ゴシックスピリット』高原英理。明後日、高原さんはbisに来訪する。
ゴスは完全に定着するんだろうな…。
考えていることがいくつかあって、ゴシックとホラーの境目のことだ。高原さんはゴスにホラーも耽美も含めている。寺山修司もゴスにつないでいる。80年代を現場で生きてきた自分としては、微妙な差異がある。この差異が面白いところだ。カルチャーが形成されている秘密が、この擦れにあるような気がする。


update2008/02/08

夜想#バンパイア

天野可淡

天野可淡のインタビュー映像を見ながら

ちょっとした衝動に駆られた。天野可淡『レトロスペクティブ』の特装本・刊行記念にbisで吉田良さんにお話しを聞いた。当時のインタビュービデオを流していただいたのだが、人となりはもちろん天野可淡の作品に魅入ってしまった。
人ともの、獣と人…一体となったひとがたは、きらきらとした存在感を放っている。人形に見られることはよくあって、こっちを見ている、とか、私を選らんだ視線…を体感する。天野可淡の綺羅とした目の視線は、鋭くこちらを射るのだけれど、無為である。返せない、載せられない何かが在る。対話の中で、天野可淡が時代を変えたと僕はいった。
感情を人形に出して良い、自分というものを人形で晒けてよい。次代の人形作家たちが可淡からもらったのは、人形という形式から自由になることではなかったろうか。会場で始めてみた作品の動画を見て、そしてずっと思い続けたのは、
確かに、可淡作品には、いろいろな面があって、感覚を解き放つように作られた作品もある。その作品が果たした役割は大きい。その他にやはり孤高の精神のオブジェに込めた作品があって、何かに達しようとする純粋さを感じる。造形の純粋さへ向う態度は、今、人形作家の中で少々忘れられている姿勢である。僕はそこに打たれた。現代美術でもそのままに評価されるだろう、造形力の力量、そしてまさに「ひとがた」と言える作品は、このジャンルの未来を示していた。

トレヴィルから可淡の本が三冊増補復刊されたが、それぞれの本について特装本が存在する。Amazonにはでていない。
関係が複雑なので、bisに来ていただければ現物を見ながら楽しんでいただけると思う。


update2008/02/06

夜想#バンパイア

山本タカト展

DSC03644.JPG

吸血鬼を描くために絵師になったとも思われる様なタカトの鮮烈な吸血鬼たち。タカト自ら言うように最も描きたかったテーマ。

描かれた吸血鬼からは時代が感じられる。昭和の初期に日本に懐胎された吸血譚は美しい怪物となってビスに取り憑く。
幻想の戦士たちが次々に身罷った世紀末に後裔は次の王国を築こうとしている。


ぜひ、今回の展示を見ていただきたいと思う。
と言うのは、前回のルーサイトの展覧会あたりから、タカトさんの絵の風が微妙に変化しはじめているからだ。一つは絵画の方向へ、もう一つはイラストレーションの良い感じへ、もう一つは、エロスのテーマで作られた映画や版画や絵画のモチーフを、タカトの作品として描いているものだ。挿絵画家が小説に絵を描くように、例えばクリムトの『接吻』が吸血鬼による接吻だったらとか…。
タカトはどの方向にも力量を見せていて、これからどうなるのだろうと、期待と好奇心が交錯する。一つに絞るということはないだろうが、一気に絵画的な作品に進むということもありえる。この様々な手法の見られる、そしておそらく未来を懐胎している今回の展示は、時代を見るにも、イラストレーションのこれからを占うにも重要なものになっている。

update2008/01/28

夜想#バンパイア

フランケンシュタイン+ヴァンパイア

DSC03551.jpg

『フランケンシュタイン』メアリー・シェリーにも『吸血鬼』ポリドリにも、奔放なバイロンやシェリーに対する、ちょっとした嫉妬のような感覚は描かれている。でもちょっとだ。

悪意とか、見えないところ、閉鎖されたところで行われる陰惨な行為というものはまだ主流になっていない。基本はポジティブで愛である。悪意や陰惨な行為はそれを支えている部分を破壊することはあっても、破滅することはなかった。今、そうした行為は、破滅を含んでいるような気がする。自傷はふつう自己の破壊はあっても破滅はないと言われてきたが、ここにきて破滅という可能性もあるのだなと思う。その行為はなかなか防衛できない。防衛するという種類のものではないけれど。

update2008/01/22

夜想#バンパイア

ヴァンパイアの薔薇

DSC02941.jpg

贄の少女たちがが、恋月姫・アンジェリコのシスターたちに救済されて、エドはまた独りになった。
昏いナハトの中で次の季節を待つ。4月にはまたビスクの新しい子たちが訪れる。誰も見たことのない。

また表情から何も伺えなくなった。贄の少女たちをさらってきたときは、ヴァンパイアらしく血を吸い頬が日に日に薔薇色に染まっていった。その正直な行動が少し可笑しくもあった。
いまエドの顔は再び死人のように蒼く白く澄んでいる。僕は毎日一本薔薇を捧げることにしてい。朝になると薔薇はからからのドライフラワーのようになっている。萩尾望都の『ポーの一族』のごとく薔薇のエキスを吸っているからに違いない。薔薇のエキスは本物ならばもっとも高価である。抽出率がわるからだ。そして色は赤くはない。透明なねっとりとした重さをもっている。

エドよ次に目覚める日は?

update2008/01/18

夜想#バンパイア

トークショウ 石田一+菊地秀行

石田一さんと菊地秀行さんの吸血鬼トーク。吸血鬼ものはクリストファー・リーの『吸血鬼ドラキュラ』(1957)につきると。山本タカトさんもhttp://www.gei-shin.co.jp/comunity/07/index.htmlで、リーのドラキュラにはじまって、今もそしてこれからも吸血鬼は、自分とともにあると書いている。


クリストファー・リーの『吸血鬼ドラキュラ』(1957)の衝撃は、良く分る。しかしこれほどまでに影響力が強いとは思っても見なかった。どうしてか?という深いところでの感覚的理由を知りたいと思った。

update2008/01/15

夜想#バンパイア

石田一 丸尾末広

DSC03305.jpg
自分に言いきかせて忘れないようにしようと思っていることがあって、現場の正解、地べたの感覚がまず第一で、そこから雑誌を作るということ。その現場での体験とずれない見方で、映画や本や作品を見ること。それは観客の立場とも違うし、作家達の立場とも違う。

今日は、石田一さんと丸尾末弘さんの対談だったが、一番、リアルに感じたのは、「体験」についてだった。若い頃に、吸血鬼でもどの映画に感動したか、心動かされたかということがあとの見方を大きく左右するということだ。理屈が動く以前に心が動いたものが何だったかということだ。僕の場合、映画体験は、「昨年マリエンバート」「欲望」という映画で、自主上映会やそれに近い形での上映を探して見て歩いたのが原点だ。

石田さん丸尾さんは、怖い映画、とくにハマーの映画に擦り付けられたようだ。たぶん今日、対談に来てくれる菊地秀行さんも、来月来てくれる黒沢清さんもそうだろう。吸血鬼映画体験が、基本的にクリストファー・リーとピーター・カッシングからというのはなかなか興味深いことだ。この体験を共有する人たちは意外と多いのではないだろうか。そしてクリエイターの人たちに。とすると、何かの変化は確実に起きているという風に直感する。

そして夜想のヴァンパイア特集が、ハマー以前に遡っていったというのもちょっと意味がある行為かもしれないと思う。今日の対談の先には、考えることがたくさん在る。イギリスで成人指定だったハマーの映画を、日本の子供たちが盗み見ながら、育ったのだ。

update2008/01/14