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中川多理/幻鳥譚そして「老天使EW-IV」


幻鳥譚そして「老天使EW-IV」


中川多理の「幻鳥譚」は、澁澤龍彦の同名のエッセイ「幻鳥譚」と山科・春秋山荘からインスピレーションを受けて生れたのだろう。鳥の頭蓋を剥き出しにした生き物が現れた。独特の骨の表現をしてきた中川多理らしい大きな踏み込みだ。柔らかいボディに骨の頭蓋がマッチしていて、そして驚いたのは人形であるということだ。そして天使の姿が、日本画に仕込まれてある箔のように時に透けて見える。鳥よりも動物よりも人形らしさを全体に感じる。

斬新なシリーズの始まり、それは中川多理の作家としての多様性と懐の深さを示している。「幻鳥譚」についてはこれから、幾多の作家たちに愛でられ、それゆえに語られると思うのでそれを楽しみに待ちたい。

今、とても気にかかっているのは「老天使EW-IV」で、展示の際に四肢を動かして抱いている時に、啓示を受けた。時々そんなことがある。いろいろな記憶が甦った。『夜想』は二度ベルメールの特集をしている。初回の時は、四谷シモンが一枚の写真からベルメールに迫ったように、自分たちも少ない資料からベルメールに立ち向かった。その中で、「オブリック」という雑誌のベルメールの人形に憑かれた。『夜想』は身体と踊りということを念頭に置いて編集してきたので、ベルメール人形の身体感がからだに入ってきた。オブジェ、身体、踊り、そんなことをずっと考えていた頃だ。

二度目のベルメールの特集は、世界でも最も広く球体関節人形が流布している日本の状況で、その原点がベルメールにあるのかどうかを探ることになった。その答えは特集を読んでもらえば良いが、ベルメールの人形と、今隆盛を極めている球体関節人形との非同一感を覚えていたが、それが何であるか分からないままもやもやしていた。

「老天使EW-IV」はどう四肢を動かしても、身体性、この人形のシェーマ、が保たれているのだ。球体関節人形は持ち主のところで、いろいろにポーズをとることになるが、ある種、作家の見せたい身体の形を失い、持ち主の身体感になっていく。それは人形ということと、愛でられる存在ということである種、必須なことである。しかし四谷シモンの人形を持ち主がポーズ替えすることはあり得ないし、そうならないように出来ている。創作人形の姿は本来、作家のものであるべきだろう。

ベルメールの人形は、ある種人体を捻って変形させて、イメージを球体関節を起点にパーツ毎に交換してなおかつ同一性を保つというものだ。だから身体そのものはばらばらになったり崩れたりはしない。如何に変形してもベルメールの思う人間の、人形の身体がある。中川多理の「老天使EW-IV」も同様に、どうポーズをとっても失われない身体をもっている。それは人形としての老天使の身体であり、中川多理の身体でもある。ばらばらでないということは、人形にとってとても重要なことであり、作家の身体感、全体性を示すためにも必要なことだ。
(今野裕一)



中川多理「老天使 EW-IV」→onlineshop