『だるまさんがころんだ』 燐光群 再演

台本をいまに書き換えたのかな…あ、全然、書き換えていないんだ。
パンフレットを後で読んで驚いた。
パンフレットには、
今回の上演は、まぎれもなく「今現在の劇」でありながら、初演時である2004年3月という時間、時代をも、確実に舞台上に刻印したいと思います。とある。台本は変えていない。なのに前回見た時よりも、さらに今を感じる。
語り役をしていて、父の無言を描いた小説で賞をとった妹が、突然、通り魔に殺される。一昨日、昨日、今日と、誰でも良かったという殺人が続いて、ここに描かれているものは、何だろうと思ってしまう。問題が起きている地点からは、どんどん問題の芽が放射状に拡がって、別の形になって、そして違う形でまたネガティブに爆発する。
私たちが作るものはプロパガンダではない。演劇である。でもその区分けはどうでもよいことだ。
坂手洋二はそう語る。
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プロパガンダ、あるいはドキュメントを現実として捕らえる行為、それをそのままに出すだけでも演劇としてしまう方法を坂手はもっている。それはあらかじめ作家の側が妄想した物語によらないということだ。現実によって作るということだ。
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その上で、演劇として収斂する物語を織り込んで(トッケイという怪物)『だるまさんがころんだ』ができ上がっている。
その織りなしのギリギリ性を保って、何度でも繰りかえせるのは坂手の才能だし、他に見たことがない。
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八百長のないゲームは、こちら側の観客や解説者(舞台なら評論家)の想定する物語とまったく相反するところで成立する。突然、終わったり、一方的だったりする。過剰な物語と、解説によって毒されてしまっている感覚から、早く逸脱するべきだ。現実は、あっけなく終わるほど、残酷で魅力的だ。坂手の向っているのは、そんな現実なのだ。
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それでも演劇が欲しい。坂手はそれができる数少ない演出家の一人だから。
トッケイは、かちかちと舞台になり続けている、地雷の時限装置の時計の音。その時の象徴。
地球上の地雷の、時計の音は、
今、爆発するしかない巨大な怪物になってしまったよ。
それに対してどうするの?
そういうメッセージが込められているのだろうけど、さらに、坂手に何かを言って欲しかった。
彼くらいしか言えないのだから。



















