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山本タカト

幻色ののぞき窓 山本タカト 芸術新聞社

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谷戸に住んでいた私は

午後3時にもなると日蔭になってしまう北鎌倉の自宅を呪うようにして生きていた。
ここを出るんだ…。そのことばかりぶつぶつと繰り返していたような気がする。20歳のときに家を出てからほとんど鎌倉を故郷として振り返ることはなかった。死ぬのはヴェネチアでなどどほざいているが、そしてかなり本気なのだが、何十年かぶりで北鎌倉の実家を去年訪れて、思ったのは、この谷戸に根が生えてしまうように、根と同一化するかのように居てしまうことを怖れていたんだと気がついた。

タカトさんの記述の中にも根が、延びていく根が、と、そこから手が勝手に根のように動いて行って、根のような絵を描いていくという…そんな感じは、究極のタカトさんの絵の、線の感覚であり、絵の源泉であるのだなぁと思う。絵はモチーフを思いつく以外に、こういう感覚のリアリティによって描かれるのだろうし、むこうから入ってくるものによって動かされるものと手の織りなしによってできあがるのだろうなと思う。

幻色ののぞき窓には、小村雪岱や鏑木清方(エッセイが素敵)の文章にでてくる絵師の絵師たる由縁、美術学校で教えてくれないような、それでいてそれがなければ一級になれないような独特の絵の馴れ初めが書かれている。黒は色の黒ではなくて、出会った闇にどう魂がもっていかれたかの黒であると思っているが、その黒の在り処をタカトさんは語っている。自分にとっての黒は、天井桟敷の完全暗転や、暗黒舞踏の微かに輪郭を光らせている身体を呑み込んでいる闇。絵画の感覚からはかなり遠い。だから絵画の秘密を感じられる本には幻惑を受ける。

もう一度、ベルメールの線について考えてみようと、思いたった。



update2010/04/28

山本タカト

山本タカトサイン会

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お茶の番頭を務めた。60人分のコーヒーや紅茶を入れるのは楽しい。表現行為ではないんだけど、豆の粉の膨らみ具合や、お茶っ葉の群れ具合をチェックしながら、入れていく感覚は、充実感がある。
帰り際に、タカトさんたちと創作についてのいろいろについて立ち話をした。
創作というのは、
100%を目指して作業するけど、つい、過剰になったりもする。

それはどうしたら良いんだろうというような話。創作は、頑張るとすぐい102%とか103%という越えたあたりへすぐにはみだしていく。これは自分のことでもあるので、言いながら、ううむまだまだできないよなと反省のような自己批判のような気分。
もの作りの時、少ない失敗より、多い失敗を選びがちだ。
98%とかが開かれて感じで、良いのだろうが、意識して減らすのは、創造の神様から罰を受けるし、だいたい失礼な話だ。全力でやってちょっと足りないあたりが最高なんだが、そんなことはなかなか難しい。自分でも仕事は過剰にふりがちだ。
どうにかならないものかな…と。おそらく作る過程に目利きの人に止めてもらうのが良いんだろう。それも粋な感じでやることが大切なんだろうと思う。勢いづいて、調子のってやっていくのに水を差さず、なおかつ、ぴたっと、止める。
伝説の音楽プロデューサーの話を聞いたことがある。ちょっと話はずれるが、歌は歌い出しがすべて。美空ひばりの、レコーディングの何度も歌い出しをチェックして、OKと思ったらもうスタジオからいなくなっていたという。できるだけ手の跡を残さないのが、ディレクター、プロデューサーの妙技だ。ディレクターというのは自己主張しては駄目なんだと思う。あくまでも作家優先。でもさっと、触れるように仕上げたりする。そんなところには遥かだが、思いはあっても良いだろう。
そのチューニングの良さ、ぐっと、ぴたっと来る感じ、それを探して生きているのかもしれない。
お茶やコーヒーでは比較的良い線までいくんだけれどな…。

update2008/02/11