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2008/03/16

池田亮二

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ガーデンプレイスで池田亮二を体験する。聴くのと見るのとを越えた圧倒的なパワーと

それでいて徹底したミニマル。まさに池田亮二。久しぶりに強い音に身を晒して快感がある。打ち上げでうねりを作り出しているのは、LRの音わりだけど、それを縦にすると…などど複雑系の話が飛び交っていた。

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2008/03/16

ムッシュー

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天井桟敷では誰もが寺山さんのことをムッシューと呼んでいた。そしてムッシューと呼ぶ声が一番、似つかわしく思えたのが、田中美未知さんだ。未知さんが編んだ「月蝕書簡」には

青ざめしわがくすり指青森の小学校の吸血鬼いずこ
包帯を巻かれて消えしわが指が恋し小学校の吸血鬼かな

寺山さんが生きていて、夜想の「ヴァンパイア」に歌を頼んだらこのような歌が紙面に載ったのだろうか。

吸血鬼と言えばばむしろ

満月に墓石はこぶ男来て肩の肉より消えてゆくなり

をとりたい気もする。


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京都、三月書房で、どうして買われずに残っていたのか、「寺山修司全歌集」風土社を、意気揚々とムッシューの前にさし出して、サインを強請ると、友達なんだからいつでもサインはできるんだからと…死んでしまうみたいだから…とまたにされたので、サインのあるべきページに寺山修司は不在だ。だからいつまでも継続しているのかもしれない。寺山さんは終わらせないためにサインをくれなかったのだ。他のものには、一杯、サインはしてもらったし、ニューズ・レターにもサインは入っていた。

さて「月蝕書簡」。寺山修司がどう作歌していたのかが、手に取るように分る、歌集で、覗き見するようでどきどきする。寺山修司は、こちらのプライベートを想像しながら覗いてくるのをこよなく好んでいたが、自分は決して「私」を見せなかった。今、ちらりと寺山修司の手が伺える。僕の肉体に寺山修司が甦ってくるようだ。

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2008/03/15

意志をすてて

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マスキング・テープが向こうからこちらにむかってくる。

会社のエントランスが塗り替えで養生をしているのをふと見ると、見たことのない、でも理想の色のブルーマスキングテープ。これこれ、この色。現場の人に恐る恐る聞いて見ると、3Mの新製品で、テープの糊が今までと違うので使い勝手が良いとのこと。ふーん。と、じっと見ていると、使いさしをくれた。あ、ありがとう。
またマスキングテープに嵌る日々がはじまるのか? まずいな。
意志をもって作り上げないといけないものが大半だけど、時おり、向こうから自分を開いてくれるものが訪れることもある。僕の場合、大半がそうか? 意志をすててじゃなくて、意志のない人生。

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2008/03/15

マスキング・テープ

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マスキング・テープをはってしおりを作っていたら
寺山修司『月蝕書簡』がとどいた。未発表歌集。
『アンジェラス』に移動して今日は歌に向き合う一日になるのか。
驟雨が公開堂前の道を通りすぎていく。自転車はびしょ濡れだ、
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2008/03/15

マスキング・テープ

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マスキング・テープをはってしおりを作っていたら
寺山修司『月蝕書簡』がとどいた。未発表歌集。
『アンジェラス』に移動して今日は歌に向き合う一日になるのか。
驟雨が公開堂前の道を通りすぎていく。自転車はびしょ濡れだ、
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2008/03/15

小島文美

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ビスに入ると花の匂いに包まれる。もとベルト・コンベアが敷いてあった階段は、小島さんに贈られた花が満載されている。

不思議なチャームのある絵、魅力のある人。ここには何かの起点がある。

+++
悪魔城ドラキュラ「月下の夜想曲」の絵の通りにGacktがコスプレをした。そして「月下の夜想曲」という曲が生まれた。いくつかの懐胎ポイントがあり、分水嶺もあったろうが、そのひとつは間違いなく、この絵にある。展覧会が終わればまたコナミに帰っていくし、権利関係があるので、写真は載せられないが、今、ビスに居る、この絵、そしてゲームのキャラクターを描いた、あるいは本の表紙を飾った絵が、何かのはじまりになったのだ。毎日、見ていて、そしてたくさんの人が見ている様子からそれが分ってきた。

++
もう一つの魅力は、夜想でも語ったことだが、男性度の強い、キャラクターなのに小島さんの絵が使われたことだ。使われて位相が擦れはじめた。おそらく女性が悪魔城ドラキュラのシリーズをプレイすることになっただろう。この変移を起す力があったということだ。

+
しかし変移は男性性から女性性への転換というようなダイレクトなものではない。どこかに乱暴な男たちが生き残る、あるいはやんちゃができる隙間が残っている。ゴスという黒いものとロリという白いものを融合することと、この不可思議な合一性は似ているところがある。

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2008/03/14

テープ・フェチ

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テープフェチでもあるけど
さらにマスキング・テープ・フェチ。まとまった数を持っていないとパニックになる。今はピンクと青と。

でもその青とピンクは感覚にぴったりしていない。前のロットの色が好き。

テープを紙にぺたぺたはってみたりする。読みかけの本にしおりがわりに使うために。

今、ビスは人手が少ないので、勘バッチを作りもしている。すとっと手応えがあるのはうまくいった証拠。その感覚とマスキングテープをペタペタするのは僕に同じ感覚だ。
料理をするのと一緒で、手の感覚は大切。何かがここから生まれてくる。
はず。

マスキングテープフェチにはもっと深い人がいて、http://www15.ocn.ne.jp/~robaroba/を運営している。
マスキングテープの展覧会をしたときに全種類を買い占めた。そしてそこになかったテープをプレゼントした。

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2008/03/13

ロイヤル

今日は、浅草のロイヤルコーヒーで
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ロワイヤル・コーヒー。いろいろなことをぼーっと考える。

リアル東京に原稿を書いた。横浜美術館の『ゴス/ゴシック』というコンセプトで組まれた『GOTH』展。
その中に書いた言葉、劣化コピーがタイトルになっているが劣化コピーが悪いと主旨ではない。

例えばゴシックだってコピーででき上がった、ゴスがゴシックのコピーで何で悪いという論旨があったとして、
何かに影響を受け、いわゆるコピーをするということはある種、必然である。問題なのは、文脈もなく、質もかなり悪く、しかもコピーしていることすら意識していない劣化コピーと、歴史の中で行われるコピーとを同一のこととして論じる、ラフな論考が問題だと…そこを指摘している。劣化コピーはし方がないし、アジアで特色的な行動だ。
それをいわゆる評論したり、解説したり、二次的に使用している人たちの質の方が問題だ。劣化コピーの良くない部分を開き直るようにして増長する。あっちもやっているから、こっちも別にやっても良いじゃないか…という受け入れやすいチープな説得で、人を納得させようとすることだ。


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2008/03/11

柳橋界隈

今日は柳橋のエクセルシオール。僕は、ぼっとしてコーヒーを飲んでいた。
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柳橋は面白い。今日、会社に来てくれた、書店の海外担当の人は、フィギアを柳橋で仕入れてから打ち合わせに来た。

海外担当から、向こうの状況を、いろいろ聞いたが、かなり文化の温度差がなくなってきていて、世界はだんだん均質の流行を抱えるようになっている。僕らみたいに少数の人たちを相手に本を作ったり、ギャラリーをやったりしていると、流行のことは余り関係ないが、それでも自分のしていることがストレートに反応してもらえるようになったらかなり楽しいかもしれない。

花街としての柳橋は滅びてしまって、少し前まで全国第7位の過疎地だったが、最近、マンションが乱立しはじめている。
ペヨトル工房の頃、行くところ、行くところ、地上げにあったのを少し思い出した。ここも何らかの形で発展するといいなぁと思う。


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2008/03/11

ビス

星川さんのクルーがビスを取材に来てくれた。インタビューされるが、ここは、夜想に関連したクリエーターたちの実験場所で、実験場所には、観客もいるし、メディアもいる。

そんなものを一気にここで作り上げているのだと答えていた。余り意識はしていなかったが、そういうことなのかと自分で納得した。言うことは、カッコよいが、まだまだ途上のことで、それは夢として答えたのだと思う。

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2008/03/10

マカロンは続く

マカロンが続いている。

スタッフが持ってきてくれたり、あるいはピエール・エルメのマカロン・ケーキを食べさせてくれたり。

ソフィア・コッポラ『マリー・アントワネット』は、マカロンの色にインスパイアーされている。マカロンのいろいろな色が、映像から感じられるように…
それは蜷川実花が印画紙の発色にまでこだわって、色を作り出しているのにちょっと似た感覚かもしれない。色の配合、絶対的な色の感覚が、まずありきなのだ。ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』は、食べているお菓子とか、ファッションは史実とはまったく異る。スニーカー履いていたりするから。でも現代にマリー・アントワネットがいたら…当然、スニーカー履くよね、あるいはマリー・アントワネットの時代にスニーカーがあったら履くよねというとってつもないガーリーさによって撮影されている。いいなぁ。

もっともソフィアが好きなのは、僕が最近食べたピエール・エルメではなくLADURREだ。ヴァレンタインには、三越で買えたらしい。ふうむ。ちょっと食べてみたかったな。

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ピエール・エルメ

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2008/03/10

ヴァンパイア

ヴァンパイアの声をあちこちで聞く。
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宝塚バウホール開場30周年 『蒼いくちづけ』−ドラキュラ伯爵の恋−
作・演出/小池修一郎
小池さんはヴァンパイア・フリークの方。萩尾望都さんの『ポーの一族』にラブコールを送り続けているとか…。
もう一つが
松平健『DRACULA ドラキュラ伝説』
全国ツアーを敢行する。演出は、やはり宝塚歌劇団、藤井大介。

流行というより繋がりを感じる。何となく。
あ、そうそうダイワハウスの新作CMも吸血鬼だった。

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2008/03/09

カリフォルニア物語

スタジオ・ライフの『カリフォルニア物語』を見に行く。

幕間でイリーコーヒー ちょっと薄い。
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吉田秋生の原作は何度読み返しただろう。

僕にとっては自分の住んでいた湘南の匂いを感じる。
理想の男の子像って? 今から15年くらい前に聞かれた時に
吉田秋生に出てくるちょっとワルの主人公かなと言ったら
古ーい。今は、ダメンズと言われたのが懐かしい。

兄弟の父親を挟んだ微妙な嫉妬や愛がテーマ。
ボクにとっては余りに現実的で胸が痛かったり、郷愁をかき立てられたり。



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2008/03/08

ゲーム文化

コスプレイヤーというのだろうか

悪魔城ドラキュラのコスプレをする人もオープニングに来てくれた。
もちろん今日は普通の服で…。

キャラに生きている、そんな印象を受けた。
ゴスとロリではないけれど、薄い確執膜を隔てて、
それを知らない人から見たら一緒のことにしか見えない文化も
そこには大きな分化峯があってほとんど交流していない。むしろあい違いをしていたりする。

ああ、これだけ違うのか、皮膚感覚が…と思う。
昔、クリエーターたちが、何となく、神宮前や六本木を徘徊して、俳諧しながらグルーピングして
何かを作っていた時代を懐かしむ話を聞いたが、
今は生態が異るように思う。

自分のテイストは大事にしていきたいが
異文化に対してはまず興味が湧く。変化は楽しい。昨日からスライサーの手の動かし方を独自に工夫しているが、今まで動かさなかった手の方向を使うのはちょっと刺激的だ。

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2008/03/07

シチリアのカタコンブ

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巴里の街の下に見し、
カタコンブなる鈍色(にびいろ)の、
人骨などはよそのこと、
あの絵に描いた白い人

与謝野晶子の歌。
廃されたもの、虚になったものに趣を見ずに生命を見ていた与謝野晶子に強烈なポジティブさを感じる。この歌に写すと今の時代はなんと滅びを好んでいるのだろうか。

シチリアのカタコンブを最近、何度となく思い出す。荒俣宏さんの『ヨーロッパホラー&ファンタジー・ガイド』を読むと、恐ろしい感じを抱くものとして書かれている。僕は、シチリアのカタコンブには親和を覚える。フランチェスコの元々の精神を復活させようとフランチェスコ派から分派したカプチン会の墓地。今はフランチェスコ会が管理している。その地下墳墓に眠る8000のミイラ。骸骨化したカタコンブの多い中、ミイラというのはまさに鈍色の人骨と白い人との間にある黒い人である。見たとき田中泯の群舞を思った。土方巽の暗黒舞踏ではない。カサカサしたディテールの生命感ではなく、黒一色の生命感だ。階級別、性別に並んでいる中、一組の老夫婦だ
けが、例外に一緒に並んでいる。ずっと、ずっとそうしている。死ぬときにこの状態を望んだのだろうか。そして半永久的に二人はそのままにいるだろう。

1920年、2歳で死んだ世界で最も美しい屍体と言われているロザリア・ロンバルドの遺体も収められている。
まるで生きているかのように。20世紀の屍体が収められるのは特例だが美しい子だったので収柩されたのだろうか。ミイラにする技術が1920年代にまだ残っていたのだろうか。


荒俣宏さんの著作は、ちょうど渋沢龍彦がした仕事を次世代が受け継いでよりホラーを見えるものとした仕事である。黄昏は、そうしてしだいに黎明期になっていく。

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『黒魔術の手帖』は学生の頃のバイブルの一冊だった。

荒俣さんの次の世代はもっと分るものとしてファンタジーやホラーを描いていくのだろうか。しかし…と思う。そうでないあり方も可能なのではないだろうか。畏怖をもたずに幻を身体の供とするような。

瀧口修造さんの弟子達は、ある時、瀧口さんの怒りをかって破門にされた。それは逆だろうと思う。弟子は師匠を越えるために師匠殺しをしなくてはならない。弟子がエピゴーネンになってはいけない。瀧口さんは時代的にベストだったかもしれないが、時代が変われば足りなかった資料が、手に入るようになったり状況も変わる。師匠と異る結論を導きされることもあるだあろう。それをすることが弟子の役割だし、愛をもって師匠を越えるということだ。そうして時代は進んでいくのだ。

ことは簡単ではない。深瀬昌久さんの足手まといの弟子をしているときに、言われたことがある。俺を越える意志と可能性がないなら今すぐ写真を辞めろと。優しい師匠だった。

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2008/03/07

小島文美 ヴァンパイア展

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深夜、小島文美展のセッティングが進んでいく。

悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲、Castlevania  白夜の協奏曲 暁の円舞曲 Heamatodipsia、
悪魔城ドラキュラ 闇の呪印、悪魔城ドラキュラXクロニクル
の原画が到着。ゲームの原画はゲーム会社に原画ごと所属しているので、公開も、そして一堂に並ぶのもはじめてのこと。作家の小島文美さんも見たことのない邂逅だ。

そして描きおろしの新作を含めて60点を越える大展覧会。
みっちりと小島ワールドが展開している。


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2008/03/06

川の流れ

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川を下って行くあの船のように ゆらゆら揺れながら流れて行こう。(浅川マキ


久しぶりにビスのそばの『ルーサイト・ギャラリー』のテラスに立って隅田川を見る。川の流れはゆったりとしていて、記憶の中の感覚とまるで一緒だ。まるで時がとまっているように。その時、まわりに人はいなくなっても川の水は変わらず流れていく。

市丸さんが住んでいたこの邸は、今おそらく隅田川そばに立っている数少ない話建築の一つだろう。そしてここに立っていると江戸時代、ここから山谷堀を通って吉原に向う猪牙船が出ていたことを思う。華やかな時、そして今は花街もなくなり、料亭もすべて営業をやめた。

BISでは今週末から小島文美さんの展覧会がある。ゲームの原画も展示される。まとまって原画が展示されるのは始めてのこと、本人も、最初で最後の集結かも…と。


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2008/03/05

蒙古斑革命

高木由利子さんのスタジオには壁に何枚も何枚も写真がはってあって
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前にチベット風の(違うかもしれないが…)小さな祭壇があって、深い紅の布が強いてあった。膝まづいて手を合わせる。
小夜子さんは若い仲間たちといつもと変わらない風情で涼やかな瞳でこちらを見ていた。
展覧会も夜想の特集ももう作れないけれど…それは現在時の小夜子を特集したかったから
こうしてここに来て、遺志を何かで形にしていきますよと小夜子さんにそっと伝える。

蒙古斑革命というプロジェクトは高木由利子さんと山口小夜子さんで編んでいたもの。

そこには二人のスピリチャルな精神が反映していた。

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2008/03/04

草間彌生 わたし大好き 映画

50枚の絵画を描くことを自分に課してそれに向う
草間彌生を撮らせている草間彌生。

ドキュメンタリー映画『草間彌生 わたし大好き』
映像の中でどんどん変化している草間彌生を見ていると
昔、本を作った時に打ち合わせをした時のことを思いだす。

以前に比べて死を語ることが多くなった。前ならわたしは死なないわよという勢いだった。
桜の詩が素敵だった。それは僕もいつも桜の季節には必ず訪れる谷中墓地。

49枚目の絵が写しだされる。もう50枚目のように完成している。絵は、ローリングしながら徐々にセグメント化されて抽象化する。ちょっと草間彌生の絵にしては抽象化しすぎたかな…のきらいもある。50枚目をどう描くのだろうと興味が最高潮になる。
50枚目は白キャンバスにしますか?用意してあるのにしますか?アシスタントが聞く。
さっき、ずっと悩んでいたのはこれなのか…。
50枚目は描きかけのを選択した。構造がすでに描いてある。
興味がさらに湧く。これを仕込んだのはいつだろうか?そして絵は、50枚目にふさわしく抽象+少々の混沌のバランスのとれたものになった。素晴らしい!!
絵が、道を歩いて行く。全部の経過を見たい。どうなって50枚目までにたどりついたのか。
それは展覧会を見にいって確認しよう。

一人の切り込みが何かを残す。
何かを見せてくれる。
大切なことだ。草間彌生はまだ生きて仕事をしている。

晩年にこんな作品ができてどうですか?
と、ドキュメンタリー監督は間抜けなことを聞いていたが、さすがに草間彌生、飽きれて苦笑していた。
わたしはもう晩年なの?
失礼な、生きている、そして今がはじまりと言い続けている作家に対して。
しかし全編の間抜けな質問が、逆にそれに応じている草間彌生の生を見せてくれていた。

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2008/03/02

桃のおまんじゅう

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『アノマ』で雪片を飲んで軽食。
散歩の番組にBISがちらりと写るかもという話をする。
雛祭りが近い。桃のお饅頭。
神戸の華僑協会でバイトをさせてもらったことがある。お祭りのときに。
その時に覚えたのが、桃のおまんじゅう。小さなお饅頭がたくさん巨大なお饅頭の中に入っている。
縁起物らしい。

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2008/02/29

体調が悪いと

体調が悪いと視野が狭くなる。
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見えているものが、自分の手に近いところになってしまう。

新国立劇場で岸田戯曲の2本を見た。『屋上庭園』『動員挿話』
女性の視点を含んだ戯曲を書いていたのだと感心した。
女性側からみたフェミニズムではなく全体から見ている。
戦争に対する批判的なところもある。

男は、虚栄とプライド。世間体。
女は、愛と我慢と爆発。そして優しさ。

岸田國士はかなり戦争に協力した文士だ。戦争中はどんなものを書いていたのかな…。

帰りの地下鉄で浅川マキを聞いていた。もっとブルーになるかと思ったら
マキの声は意外にも明るさをもっている。
おんな歌でもないし、元気をもらった。


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2008/02/22

めずらしく

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めずらしく霧がかかっている。

『上海の伯爵夫人』の映画を見ていたので
上海の霧を見てみたいと思うようになった。

小さな映画館の特集をしていた『サライ』に藤村志保が
『かくも長き不在』を見た感動を語っていた。

何も変わらない太平洋の防波堤
デュラスの原作を見事に映画にした。

『上海の伯爵夫人』悪くないのだが
少しドラマティック過ぎて
もう少し何もないところが欲しい。
音楽もピッタリ入れすぎでちょっと下品だった。
ヒットするためには、感動を誘うためには必要なんだろうな。

何もないような
『かくも長き不在』やっぱり素敵だ。
もう一度、見たくなった。

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2008/02/20

ゴス展

原稿を書くことになったので横浜ゴス展へ。コンセプトがちょっと駄目だー。

簡単に言えば、そんなの関係ねーと歴史を使わないで使っているところがゴスの面白いところであり、今、日本で起きている、そして夜想が共感をもって触れている文化なのに
歴史にもう一度、線をつけたら、何か新しいコンセプトが生まれるかも…。というのが趣旨なんだって。
ううん。駄目かも。

二日ほど何も食べていないので
中華街のいつものお店によってピータン粥。う、美味しい。
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有名なお粥の店の隣のお店。もう30年もかよっている。
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油絛が最高なんだ。ぱりぱりしていて。

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2008/02/19

知恵熱のような疲労困憊

BISの運営はいろいろな人の助けをもらっているのだけれど


かなりのプレッシャーを受けていたみたいだ。
最近、生き生きとした大らかさがないね と、言われたりもした。
mustの優先することが多いからかもしれない。一昨日は、どうしたらこんなに疲労するの?とマッサージ師に言われ、いきなりのもみ返しで、歩けないほどの痛みとだるさが襲ってきた。これだけの乳酸を貯めてたのか…。
昨日から今日にかけては腹下しで薬も効かない。もう20時間近く連続していて、寝れない。
思考がネガティブになりそうで、身体のマイナスはかなり心に響くんだなぁと驚いた。
次の展覧会の準備に入る前には、体調を整えないと。またさらに見えるものが増えてきた様な気がしていて、感覚はフレッシュなんだけれど、どうも身体がついてこない。トレーニングはしているんだけどね。
明日は、元気になるといいな。


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2008/02/19

カルチュラル・ポイント

もちろん時代は絵に描いたようにあるポイントを持って変化するものではない。
しかしそこに変化の胎動が集まってきて、ポンと変わることが結構ある。

ヴァンパイアでは、ブラム・ストーカー「ドラキュラ」、ハマーフィルムズ、そして「ポーの一族」だ。
ゴスでは意外にも楠本まきの「Kの葬列」じゃないかと思っている。
そんなポイントを僕は勝手にカルチュラル・ポイントと名づけて、楽しんでいる。

見つけてそれを使って解析しようというつもりはゼロだ。そこから見ると見えてくるものもあるから面白いのだ。

ハマーフィルムズのあたりからの空白期を茫然と眺めていたら、黒沢清さんの文章が教えてくれた。ポイントではなく見方を。bisの対談ではいくつは、本当に未知のものを見えるようにしてくれる言葉が、出てくることがある。話してくれる人に感謝したい。

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2008/02/18

山本タカト展 無事終了

盛況に山本タカト『ヴァンパイア』展が終了しようとしている。
時折、会場に来ていただく山本タカト夫妻とお話しをするのがとっても楽しみだった。

故郷の鎌倉に現在住まわれているということもあって、突然、ローカルな話にもなったりする。
神宮前にある『ビノエ・パスタ』というもう30年も通っているイタリアンのお店があるが、ある時から野菜が美味しくなったので、美味しいねと言ったら、鎌倉で野菜を作ってもらっている。鎌倉野菜というのは僕が地元の友達と作り出したんだよ。と。
もとは鎌倉駅の裏側だった、市場は、今は、市民座の跡地あたりに移っている。そこで買ってきてプレゼントしてもらった塩は、BISで大切に使っている。さらさらのパウダースノーのような塩。
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『アーツ&サイエンス』のブランドも教わった。
絵の話もしている。イラストの話も。イメージで思考する人と論理で思考する人の話や、チンパンジーの話も。どこかで絵を描くことにつながっているのが、山本タカト夫妻らしい。

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2008/02/17

黒沢清vs梅本洋一 

二十何年ぶりに会ったのに梅本洋一は、昔とまったく変わらない感じだった。皮膚に少々の脂肪をまとったかもしれないが、それは自分も同様のこと。夜想『アルトー』の号に書いてもらったり『亡命者のハリウッド』を編集してもらったり。同志は健在。同士と勝手に言うのも失礼かもしれないが。

黒沢清さんには夜想のヴァンパイア特集が追いつかなかった。でも良かったかもしれない。今日の話を、6ヶ月前に聞いたら、雑誌の構成を全部変えないといかなかったかも。
黒沢さんの最初の作品『白い肌に狂う牙』(1977)は、ほぼ吸血鬼もの。知らなかった!! もちろんマリオ・バーヴァの『白い肌に狂う鞭』からのもの。見たのは小学校4年生だって。ううん。とんでもないな。僕は、その頃、名画座で『バンビ』か東宝で『ゴジラ』を見てた。映画の場合、何を海馬に取り込むかというのはかなり重大な体験だ。最初に感動した映画から逃れられないのかもしれない。

ホラー映画と怪奇映画の差とか、現在日本の映画状況とか、そして黒沢さんの映画現場の不思議などいろいろ聞かせていただいた。ずっと懸案だったことに答えをいただいた。感謝。

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2008/02/16

野波浩 

野波さんの展覧会は、紀伊國屋画廊。
地下のカレー屋さんで久しぶりにカレー。もう30年前に、凝りに凝ったことがあって、厨房を覗いて同じものを作ろうと、必死になっていた時期があった。

当時は、大缶入りのマギー・ブイヨンが手に入らず苦労した。小さいのでも良かろうに、大きいのでないと同じ味がでないと思い込んでいた。しゃぶしゃぶのルーは、大好きな「デリー」のカレーの感じに良く似ている。ビーフよりもポークがなぜかピッタリくる味は、どうにか真似ることができたと記憶しているが、味はどうだったのか。自己満足だったかもしれない。
『デリー』のカレーは、当時、テイクアウトを良くお土産にしていた。マンディアルグを訳していただいた、早稲田大学仏文学の品田一良さんにお持ちしたら、えらく評価されて、ではと早稲田大学の教職員専門の食堂で、品田さんのお気に入りをご馳走していただいた記憶がある。
マンディアルグ夫人の、『ボナバンチュール』の訳をお願いして、ペヨトル工房解散で果たせなかったのが、とても心残りだ。昨年の2月に亡くなられて、またまた約束をかなえられないまま、向こうの世界での仕事を残してしまった。本名は品田三和一良=しなだ・みわいちら。おそらくクリスチャン・ネームの当て字だと思われる。
マンディアルグは『海の百合』が好きです。と、話して大いに気に入られた。夜想創刊の頃、ただただ懐かしい。スムーズな訳でとてもダンディで素敵な文学者だった。突堤へ延びる湾の姿が綺麗なんだよね、と、千葉の秘密の避暑地をマンディアルグに登場する風景に準えていらした。幻想も耽美も、少し色合いを変えている平成時だが、野波浩さんの写真を見ていると、いやいや平成もまだ棄てたものではないでしょうと、品田さんに報告してみたくなる。なんとおっしゃるか。

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2008/02/15

『ゴス』のうねりがまたもう一度、別の形で動いているような気がする。
横浜美術館の展覧会、そしてTHが二度目の特集を組んでいる。

たとえばフェティッシュという言葉が意味する範囲が変わってきていて

傷をつける、しかもかなりざくざくと傷をつける
というところまでフェティッシュと言うようになってきている。

フェティッシュのたとえば傷をつけるという行為は
如何に、何故というところがポイントなのではと、
人に聞かれると答えたりしていた。

答えてはいるが
見えてこないこともたくさんあって
見える、分る、というぐっとした確信が足りない。
ときどきそのことにいらいらしたりする。
たまたま手にカッターナイフをもって作業をしていた。
こんな力の描け方をしてたら危ないな、と思いながら
ざっくりと手を切ってしまった。
切り傷でこんなに深いのは生まれてはじめてかもしれない。

小一時間血は止まらず、それからしばらくしてようやく消毒をしたら
傷口の周辺は腫れていて、傷口は美しくなかった。

綺麗な傷口なら…とフェティッシュのことを言っていたがそんな簡単な仕訳が利かないのが今だ。
軽々しく言っていた罰があたったのかもしれない。

~すべきとは絶対に思わない。
現状は分析よりもリアルに切実に動いている。
しかしだからといって現状のすべてを肯定したくはない。
美しいものを見たいという欲望があるのだから。
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このプラスティックをカットしようとして失敗した。傷は見せる美しさをもっていなかった。

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2008/02/14

PIERRE HERME (ピエール・エルメ)

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イベントの準備もしつつ次の展覧会の準備もしつつ夜想のことも考えている。
スタッフはかなりいっぱいっぱいだけれども、みな自分のこととしていろいろやってくれている。感謝。
それでも気を遠くに飛ばして広く空気を身体に入れないと、狭い感じの作りになってしまう。スタッフのみなには悪いが外にでる。

次号、夜想の相談を夜から朝にかけてする。
「ヴェルサイユ」展覧会スペシャルのマカロンを出されて、ふーんという感じで摘んだら、これが美味しかった。
マカロンってこんな美味しい食べ物だったの?

PIERRE HERME (ピエール・エルメ)のを食べたのだけど、今は、他のお店のもこのくらい美味しいのかな?

話はだいぶまとまって撮影のことまで進んだ。
それにつけても、と、また山口小夜子さんの話になった。これからドラスティックに仕事ぶりが変わる予感がしていたのに…というのが皆の共通の意見だ。


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2008/02/12

今日はアンジェラス

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最近、来ていないじゃないの? 
言われて今日のカフェをアンジェラスにしようと決める。飲むのはスペシャル・コーヒー。豆はブルマンだ。

アンジェラスで『カルチュラル・スタディーズ』吉見俊哉編・講談社を読む。

『どこから来たんじゃねぇんだよ』という言葉からは「私はどこから来たのか?」という長い問いの時間の存在を考えざるを得ない。そして「どこにいるかなんだ」という言葉からは、現在の引き裂かれた、不安定な自分を受け入れようという積極的な肯定を感じる。

という一文がある。
無意識に劣化コピーを重ねて、変形をしていくイメージ。原型はさ…と口を挟むと、そんなの関係ないと答える人がいる。そこに今の気分が反映されている。そしてゴシックがゴスに、人形がドールになっていく、そしてなったところは、時代のアイデンティファイとなるところ。今、ここにいるんだという地点。

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2008/02/11

山本タカトサイン会

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お茶の番頭を務めた。60人分のコーヒーや紅茶を入れるのは楽しい。表現行為ではないんだけど、豆の粉の膨らみ具合や、お茶っ葉の群れ具合をチェックしながら、入れていく感覚は、充実感がある。
帰り際に、タカトさんたちと創作についてのいろいろについて立ち話をした。
創作というのは、
100%を目指して作業するけど、つい、過剰になったりもする。

それはどうしたら良いんだろうというような話。創作は、頑張るとすぐい102%とか103%という越えたあたりへすぐにはみだしていく。これは自分のことでもあるので、言いながら、ううむまだまだできないよなと反省のような自己批判のような気分。
もの作りの時、少ない失敗より、多い失敗を選びがちだ。
98%とかが開かれて感じで、良いのだろうが、意識して減らすのは、創造の神様から罰を受けるし、だいたい失礼な話だ。全力でやってちょっと足りないあたりが最高なんだが、そんなことはなかなか難しい。自分でも仕事は過剰にふりがちだ。
どうにかならないものかな…と。おそらく作る過程に目利きの人に止めてもらうのが良いんだろう。それも粋な感じでやることが大切なんだろうと思う。勢いづいて、調子のってやっていくのに水を差さず、なおかつ、ぴたっと、止める。
伝説の音楽プロデューサーの話を聞いたことがある。ちょっと話はずれるが、歌は歌い出しがすべて。美空ひばりの、レコーディングの何度も歌い出しをチェックして、OKと思ったらもうスタジオからいなくなっていたという。できるだけ手の跡を残さないのが、ディレクター、プロデューサーの妙技だ。ディレクターというのは自己主張しては駄目なんだと思う。あくまでも作家優先。でもさっと、触れるように仕上げたりする。そんなところには遥かだが、思いはあっても良いだろう。
そのチューニングの良さ、ぐっと、ぴたっと来る感じ、それを探して生きているのかもしれない。
お茶やコーヒーでは比較的良い線までいくんだけれどな…。

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2008/02/10

高原英里 山本タカト 東雅夫 そして…。

もっと、ずっと話していたかった。
タカトさんの少年についての話、高原さんの夜想への注文。

最近、『夜想』は完成形ではないような気がしている。ここを起点に、観客や作家が、そして自分自身がまた先へ向っていく、布石のようなものではないかと…。だからできあがった「夜想」にいろいろ言われたりするのはとても楽しい。
bisのギャラリーもあって、そして変化と一歩が踏み込めたら面白いなぁと思う。そういう変化が雑誌から起きたらなぁ。


東雅夫さんは上手にみんなの間をつなぐ、それでいて本格的な話。
吸血鬼の話をしているのだが、そこには幻想や耽美を嗣いできた作品や人のことが次々と出てくる。

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2008/02/09

お茶を入れたり、コーヒーを入れたり 

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久しぶりにお茶番頭をしようと、

マンデリン・ベースの豆とマリアージュ・フルールの『エロス』を買いに銀座に自転車を飛ばす。
浅草橋に戻って照明の準備と味見にコーヒーを入れる。

そうそう金子國義さんの展覧会に顔をだしたけれど、終始歌舞伎の話と、自分のステージの話し…。
またまた菊之助よかったよと…菊之助自慢。
アリスのお姉さんが暴れていた。金子國義さんもけっこうゴスだよな…。ねぇねぇ、世の中は何でこんなに気持ち悪くなっちゃうの?
と、耽美不足を嘆いておられた。

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2008/02/08

『ゴシックスピリット』(2007)高原英理

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颱風の日に拾った嵐が膝で寝ている。

読んでいるのは『ゴシックスピリット』高原英理。明後日、高原さんはbisに来訪する。
ゴスは完全に定着するんだろうな…。
考えていることがいくつかあって、ゴシックとホラーの境目のことだ。高原さんはゴスにホラーも耽美も含めている。寺山修司もゴスにつないでいる。80年代を現場で生きてきた自分としては、微妙な差異がある。この差異が面白いところだ。カルチャーが形成されている秘密が、この擦れにあるような気がする。


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2008/02/06

天野可淡

天野可淡のインタビュー映像を見ながら

ちょっとした衝動に駆られた。天野可淡『レトロスペクティブ』の特装本・刊行記念にbisで吉田良さんにお話しを聞いた。当時のインタビュービデオを流していただいたのだが、人となりはもちろん天野可淡の作品に魅入ってしまった。
人ともの、獣と人…一体となったひとがたは、きらきらとした存在感を放っている。人形に見られることはよくあって、こっちを見ている、とか、私を選らんだ視線…を体感する。天野可淡の綺羅とした目の視線は、鋭くこちらを射るのだけれど、無為である。返せない、載せられない何かが在る。対話の中で、天野可淡が時代を変えたと僕はいった。
感情を人形に出して良い、自分というものを人形で晒けてよい。次代の人形作家たちが可淡からもらったのは、人形という形式から自由になることではなかったろうか。会場で始めてみた作品の動画を見て、そしてずっと思い続けたのは、
確かに、可淡作品には、いろいろな面があって、感覚を解き放つように作られた作品もある。その作品が果たした役割は大きい。その他にやはり孤高の精神のオブジェに込めた作品があって、何かに達しようとする純粋さを感じる。造形の純粋さへ向う態度は、今、人形作家の中で少々忘れられている姿勢である。僕はそこに打たれた。現代美術でもそのままに評価されるだろう、造形力の力量、そしてまさに「ひとがた」と言える作品は、このジャンルの未来を示していた。

トレヴィルから可淡の本が三冊増補復刊されたが、それぞれの本について特装本が存在する。Amazonにはでていない。
関係が複雑なので、bisに来ていただければ現物を見ながら楽しんでいただけると思う。


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2008/02/04

碧のイリー・カップ

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ヤン・ファーブルのイリー・コレクション。

ヴェネチア・ビエンナーレで発表された『劇的狂気の力』1984年が、パルコ劇場で上演されたのは1986年のことだった。あの頃、コンテンポラリーと呼ばれる、美術や舞台が本格的に日本に入ってきた頃だ。1984年ボイスが来日した。今ある日本の現代美術がそこで懐胎した。東京芸大での学生対話集会では、司会を宮島達男が務め、実行委委員には長谷川祐子もいた。西武百貨店がノンプロフィットで撮影クルーを出し、僕もそこに参加した。撮影クルーには畠山直哉やポケモンを作った石原恒和などもいた。
ボイス来日の記録は、ペヨトル工房のボイス・イン・ジャパンに結晶したが、ビデオブックも本も余り売れなかった。でも種子を懐胎できたことが誇りだった。その2年後、ヤン・ファーブルは、『劇的狂気の力』を引っさげて来日するのだが、寺山修司などから噂だけを聞いていて詳細は分らなかった。ずっと演劇の人だと思っていた。
オープニングは強烈で、ミニマルな繰り返しの動作の中で、袋にいれたカエルを踏みつぶした。パフォーマンスは延々と続き、その余りのミニマルさに挑発されて、観客が舞台に向って、『おめらのやっていることは、最後までおみとうしだ。やめろ!やめろ!くだらない』と叫んで詰め寄ったりした。客席は出入り自由になっているほど上演時間は長かった。背景には美術の歴史的な作品がどんどん出てきて、それを否定するようなパフォーマンスだったように思う。最後にボイスの作品が出て、演者が「ヤン・ファーブル!」と叫んで終わる。パフォーマンスとしてもカッコよかった。それで舞台表現をやめるというのもカッコよかった。
その後、美術作品を中心に活動をし、舞台作品もまた作るようになった。
ペヨトル工房ではヤン・ファーブルの読本を出版した。

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2008/02/03

節分の夢見

珍しく、夢を見た。

信じられないくらいロジカルなことを考えていた。起きてメモをつけようとしたらすーっと雪空に消えていった。

無常について書かれたブログを読んだからかもしれない。本を読み解く素晴らしい能力を持っている人がいて、生き様によってそれが機能しないこともあり、それはちょっと哀しいことだ。哀しいといって余裕をかませている分けにはいかない。自分の方がもっともっと生き様や、結果によって、僅かしか与えられていない能力を発揮できないでいたりする。それでいて駄目だ、なんて思ってみたりする。それだから人間なんだと思うけれど。
感覚は正直にものの本質を伝えてくれるけど、しばしば生き様の影響を受けて、歪んでしまう。それを補償するのがロジックなんだと思うが、ロジックは最近、使い方を間違われているような気がする。僕も影響を受けている。自分の描いた結果から、逆算して使うロジック、結果の分ったゲームをするようなところがある。探偵小説は、逆算で成立している。逆算しないで書く純文学というジャンルもある。その両方を同じに扱ってはいけないだろう。
ロジックは見えない結果を類推するために使うものだと思う。
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嵐くんに鬼になってもらうとしたら、投げる前に豆を食べちゃうわ、居眠りをするわで、役にたちませんでした。


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2008/02/01

パン・オウ・ショコラ

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クリスチャン・コンスタンのパン・オウ・ショコラを絶賛したが、日本にも美味しいパン・オウ・ショコラはある。

ロワゾー・ド・リヨンのパン。フランス系の絶品のケーキ屋さん。そこのパン・オウ・ショコラはやはり美味しい。もちろんケーキも美味しくて最近ご愛用している。


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2008/02/01

イリー・コレクション

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イリー・コレクション。クネリスのカップ。

クネリスは、アルテ・ポーヴェラの大好きな作家。ドキュメンタでヨーゼフ・ボイスが結果的に挑発されて、クネリスの作品の前で黄金の王冠を溶かすパフォーマンスをした。ドキュメンタでクネリスは急遽、漆黒の色から黄金の色に壁を変えたからだ。国際展ではよくあることで、隣の作品を充分に意識して作品を設置する。だから国際展はカタログと出品作品が異っていることがよくある。
名古屋にICCがあって、南条さんや逢坂さんが活躍していた。
生きた馬を展示したクネリスが使ったギャラリーによく似た作りをしていたICCにクネリスが招聘されたのは当然といえば当然だった。作品は黒い壁ような迫力と野の花を飾る繊細さとのアンサンブルだった。『EOS』は、クネリスにインタビューを申し入れたが、イタリア語の通訳がなかなか’見つからなかった。たまたま取材に行っていた先で、若桑みどりさんが、私がやってあげるよとかってでてくださった。恐縮至極。若桑みどりさんのイタリア語は、日本語同様上品ではあるが、ちょっとべらんめい調だったのは気のせいだったろうか。
ご自分の聴きたいこともあったろうに、本当に通訳をしてくれた。こんな贅沢なことをしてよいのだろうかとドキドキしたことを覚えている。しかしまぁ、そうして若い人間は育っていく。育ったかな、ちゃんと…。若桑さん。


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2008/02/01

クリスチャン・コンスタン 

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『エマ』を読んでいたらふとソニア・リキエルのパリ散歩(2000)の本を思いだした。

リキエルファンでないとお得感がない100ページちょっとのエッセイ集だけど、一つ一つのエッセイがまさにパリを日常の粋になっている。本棚を見ればその作家その人が分るように、フェイバリットを垣間見れば、作家の力量が分る。パリのチョコレートの力量は、計り知れない。メゾン・ド・ショコラに感動していた頃もあったが(今でも美味しいけれど…日本に入ってくると味がちょっとと思うのは気のせいか?)

パリに行った時に、試しに、リキエルの書いた、クリスチャン・コンスタンを探して少し歩いた。試しになんて本当に失礼だった。『クリスチャン・コンスタン』は、白い小さなメゾンで、瀟洒なウィンドウにチョコレートとパンが並んでいた。
チョコは…まさに筆舌尽しがたい。楽しみがあって、美味しくて、拡がりがあって…。
チョコレート・パンもあったので、10個、いや在るだけと買おうとしたら、毎日、楽しみに来る人がいるから残しておいてね、一人、一個と言われた。
そんな話を店の人としていたら、本当にお婆さんが入ってきて、チョコ・パン一個買って行った。リキエルはそんな風景も好きなんだろうなと、ちょっと自分が恥ずかしく、そしてパリが羨ましく思った。パリにはパンはその日、買って、その日に食べるものという頑なさが残っていて、今だに若いカップルが喧嘩しながら(朝、パンを買いに行くのはどっちだと)そんな風習を守っていた。チョコパンは絶品だった。もちろん。

ちなみに日本もチョコレートはレベルが高くなっている。僕はずっと和光の『ル・ショワ』に通っていたのだが、ある時から微妙に味が変わった様な気がして足が遠のいた。ふとネットで調べたらパティシエの川口行彦さんが和光を出て「オリジンーヌ・カカオ」をオープンしていた。味は?…最高! 自由が丘に行けば、お店に寄るようにしている。


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2008/01/31

小町村芝居正月 国立劇場 2008年1月3日~27日

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菊之助が何かに邪魔されたりしなければ玉三郎に続く次代の女形になるだろうと、小町村芝居正月を見て思った。思ったという意志よりも先に菊之助の演技がそう確信させる。

歌舞伎は、その時々の座頭の演出や工夫を加える芝居だ。だから時に、ある名優の演技が目立つ用に変えたりもしている。陰で旦那芝居と言われる由縁だ。
長い間継承されてきたから守れ、駄目だという話ではない。どの部分が全体を考えてされた合理的演出か、どの部分が旦那の我が侭と自分の名演を見せたいがためにされた演出かを見極めないと、変更はできないということだ。
パリだから動く距離を減らしてこっちからでましょうよ、という演出はなしだ。そんな勝手をしたらさらに歌舞伎が壊れてしまう。
歌舞伎が現代も上演されているという部分で、現代演劇なら、役者の我が侭でない演出というものが生かされると良いだろう。もともと歌舞伎はそうしたものを含んでいる。変化のなかで混乱しているだけなのだ。
菊五郎劇団が、今から219年前の正月芝居『小町村芝居正月』を復活し上演した。復活とは言え、補綴されて新作に近いものになっている。菊五郎、菊之助という旦那たちを生かしながら、現代演劇として通用する演出もされていて、非常に面白い。猿之助のように新劇、宝塚手法を取り入れて(でも宝塚も元々歌舞伎手法だけれど…)見やすくするのも一つの方法だが、菊五郎劇団のように歌舞伎の伝統的な作法の中で、演出を統一させて現代劇とする方法もあるのだと改めて思った。この方法が生きるのは、蜷川幸雄の舞台でも好演した現代の役者としての菊之助の存在が不可欠ではある。
『小町村芝居正月』は、正月芝居にのっとって前半が時代物、後半が世話物の作りになっている。前半は菊五郎が活躍する。菊五郎さん、梅幸さんが生きておられた時は、やんちゃな次男坊見たいな感じで、劇団も斜めに見ていたようなところがあって、でもそれが江戸の遊び人風で、とっても素敵だった。最近は、お父さんとしての風があり、菊之助の冒険を座頭として支えてやる、という感じで、また味わいがある。あれっ?この芝居、菊之助の芝居じゃなかったけ?と前半、訝しげに思うほど、菊五郎さん頑張っているが、後半になるとぱっと菊之助に渡して支える方にまわる。『十二夜』でもそうだったけど菊五郎さん、菊之助さんが大好きなんだなぁ(演劇人として)とつくづく思う。
菊之助は、演出の目ももっているし、現代劇の前線で活躍できる役者だし、劇団をフルに使っても良いのだけれど、オーバー・ワークにならないよう、役者としての魅力を発揮できるよう、菊五郎さんがサポートしている(ような気がする)。


時代物と世話物の間に、『深草の里の場』という長唄舞踊が入っていて、これがまったりで絶品。松緑が進境著しく端正な踊りを見せ、元々踊り上手の菊五郎が少し気を入れて踊り、菊之助が菊之丞の振りよろしく抑え目のたおやかな、それでいて若さを感じる踊り。梅幸さんを少し思いだす。
一転、後半は、女郎狐の菊之助が大活躍の世話物になる。復活狂言なので、菊之助は先代の演技を倣うことなく自分の狐を演じることができる。菊之助は歌舞伎らしい狐の型だが、どこか色っぽく、そしてみずみずしい狐だ。市川猿之助が国立劇場で宙乗りを復活させ新しい狐・忠信を演じて一世を風靡したように、菊之助もまた平成の新しい狐演技を作り出したのではないだろうか。他の役の狐も見てみたい。無理難題だけれど、静、忠信を早替わりで両役つとめるとか…。とにかく見たい。女郎狐の早替わり、ほんとにおきゃんで美しく、久々、ほれぼれする役者演技に出会えた感じだ。
玉三郎の後は、菊之助で決まりなんじゃないだろうか。
女形は時代の匂いがしないと時代をとれないものだ。もちろんじゃまが入らなければの話だけどね。玉さんだってもの凄く、苦労したもの。


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2008/01/29

イリー・コレクション

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ほんとうに久しぶりに外に出て自転車で銀座に向った。
途中、日本橋に大きなイリイの店ができたのでエスプレッソを立ち飲みしていると、イタリア人の店長が流暢な日本語で話しかけてきた。

イリー・コレクションのカップは大好きで、クネリスとアブラモビッチを持っている。最近、ヤン・ファーブルを買ったなどと話していると、イタリアも物価が高くなって、日本人のブランド買いがめっきり減ったと。イリー・コレクションも買えないよとぼやいていた。イリー・コレクションは、現代美術の作家にエスプレッソ・カップをデザインしてもらうというもので、ヴェネチア・ビエンナーレとも関連している。これが思いきったデザインでとても面白い。現代美術がプロダクトと組む例は最近多くなってきたが、これは作家にも買う側にもかなり成功していると言える。ところでそのドゥカティ(Ducati)のバックいいねぇ、と店長さん。あ、これはTUMIとのコラボのバッグですよ。へぇ、ラインがドゥカティのバイクそのままだね。もしかしたらアートではないけれど、これも成功しているコラボかもしれない。では、またねと挨拶をして銀座の画廊に向った。


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2008/01/28

山本タカト展

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吸血鬼を描くために絵師になったとも思われる様なタカトの鮮烈な吸血鬼たち。タカト自ら言うように最も描きたかったテーマ。

描かれた吸血鬼からは時代が感じられる。昭和の初期に日本に懐胎された吸血譚は美しい怪物となってビスに取り憑く。
幻想の戦士たちが次々に身罷った世紀末に後裔は次の王国を築こうとしている。


ぜひ、今回の展示を見ていただきたいと思う。
と言うのは、前回のルーサイトの展覧会あたりから、タカトさんの絵の風が微妙に変化しはじめているからだ。一つは絵画の方向へ、もう一つはイラストレーションの良い感じへ、もう一つは、エロスのテーマで作られた映画や版画や絵画のモチーフを、タカトの作品として描いているものだ。挿絵画家が小説に絵を描くように、例えばクリムトの『接吻』が吸血鬼による接吻だったらとか…。
タカトはどの方向にも力量を見せていて、これからどうなるのだろうと、期待と好奇心が交錯する。一つに絞るということはないだろうが、一気に絵画的な作品に進むということもありえる。この様々な手法の見られる、そしておそらく未来を懐胎している今回の展示は、時代を見るにも、イラストレーションのこれからを占うにも重要なものになっている。

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2008/01/27

色川のオヤジさんは

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色川のオヤジさんは五代目。文久年間から続いている。でも仕入れるのも焼くのも客の相手もオヤジさん一人。

客が悪いからよぉ、駄目なんだよ。
これは良く言う、自浄努力をしないで責任転嫁する時の言い方だ。オヤジさんの店はひっきりなしに人が来て、事務所がすぐ側で様子を見ながら来ている自分でもしばしば入れないことが多い。だから満員何だけどちょっと不満。お客のよいしょとか、そんなのは全然、いらないし、まぁ、客が厳しくて切磋する自分、相互にできあがっていく部分というのがあると思っているのだろう。店は客が作るとも言っている。(そんなことはなくて店はやっぱり店主が作るんだけど、どう客を考えているかで大分、全体が変わり、ひいては自分に返ってくる。)厳しいっていっても充分に粋な感じで愛がないと駄目だしね。
客の悪いのは、味に関してだろうな…。味が分らないというのは、簡単な言い方だが、もっと言えば味を楽しめないということなんだろうな。自分勝手にじゃなくて、色川の鰻の味として楽しめるかどうか、ということだろう。蘊蓄も語らずに、ただ楽しむ。お、今日はこんな感じの鰻なんだ。鰻って、一匹ずつ味が違うからね。ふわっと人生とか、食べ物とか、楽しめるようになるのはいつなんだろうと思って、若い時代をすごしていたけど、なかなか。でもまぁ到達とか考えず、楽しむっていうことだ。でも味は分んなくちゃ駄目だよね。基本として。ね、おやじさん。


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2008/01/26

光はない

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タカト展のオープニングも無事に終わって、事務所のソファに座ったら睡眠をとっていない僕の頭脳は一瞬にして幕がおりた。
今から5年ほどの前にその頭脳は毎日のように深海を彷徨って僕にさまざまな悪夢を体験させた。

深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない。


大谷芳久が現代美術を展覧するかんらん舎をやめて始めたのは鉱石結晶の収集だった。その結晶を撮影してくれたのが畠山直哉。二人の結晶は『透きとおる石』(1997)という本になった。鉱物の隣に大谷芳久と僕はオマージュの文や小説の一部を記した。明石原人は大谷芳久が教えてくれて、そして心に滲みた歌を三首選んだのは僕だ。あと二首は

蒼空の澄みきはまれる昼日なか光れ光れと瑠璃戸をみがく
シルレア紀の地層は杳き(とほ)きそのかみを海の蠍の我もすみけむ 
                         明石海人『白描』
                         明石海人全歌集 (1978年)
歌が救ってくれた分けではないが、僕はどうにか深海から脱出して今、夜想とビスを動かしている。寝ている僕を起して『透きとおる石』をさし出した人が居た。僕も大谷芳久も植物結晶の純粋さに惹かれて、それは現代美術の不純性に嫌気をさしていた二人の共通感覚だった。

そのはずなのに僕も大谷芳久も人間の業で手の跡を残した。それが歌を選ぶことだった。鉱物は解釈なくそこに居る。だから写真集を組んだのではないのか、そして畠山直哉もそれに賛同したのではないか。本を汚した慙愧はずっと僕をとらえていた。「この本で明石海人を知ったんです」そう言われた時に、本は、鉱物とは別に一人分の仕事は果たしていたのだと心からほっとする思いだった。救われる気持ちになった。

自分に言いきかせることとして言うのだが、凄いもの、一流だと言われているものには実際そうでないものもたくさんあって、それを崇めている場合がある。しかし中には本当に凄くて面白いものがある。そうしたものまで一刀両断に切り捨てたり、無視したりしようとする傾向を最近目にする。あっていない権威付によって成立しているものを排除するのではなく、排除すべきは無為な権威付であって、そのものではない。埋もれているものもあるだろうし、権威付と別の見方によって魅力が発揮されるものもたくさんある。自分自身が良く楽しめるということも大事だし、出版をしているのだから良く楽しんでもらえるように限定をしないということも大事だ。

多く心が開くように。僕もそうした人やものによって救われてきた。だから…。

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2008/01/22

フランケンシュタイン+ヴァンパイア

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『フランケンシュタイン』メアリー・シェリーにも『吸血鬼』ポリドリにも、奔放なバイロンやシェリーに対する、ちょっとした嫉妬のような感覚は描かれている。でもちょっとだ。

悪意とか、見えないところ、閉鎖されたところで行われる陰惨な行為というものはまだ主流になっていない。基本はポジティブで愛である。悪意や陰惨な行為はそれを支えている部分を破壊することはあっても、破滅することはなかった。今、そうした行為は、破滅を含んでいるような気がする。自傷はふつう自己の破壊はあっても破滅はないと言われてきたが、ここにきて破滅という可能性もあるのだなと思う。その行為はなかなか防衛できない。防衛するという種類のものではないけれど。

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2008/01/19

『フランケンシュタイン』(1818)メアリー・シェリー

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メアリーが『フランケンシュタイン』(1818)を書くきっかけになったレマン湖での一夜は、1816年6月、そこにはバイロン、バイロンの愛人、シェリーのカップル、医者のポリドリがいた。この時、メアリー・シェリーは、まだ愛人であってシェリーには、妻ハリエットがいた。シェリーは、妻ハリエットを「霊の妹」としてメアリーと三人で暮らしたいと本気で提案していた。そして12月ハリエットは自殺する。

バイロンもまた妻から離婚を迫られつつ、クレアは妊娠中、そして姉との間に子供をもうけるというスキャンダルを抱えていた。
『フランケンシュタイン』のテーマは、思想や宗教に翻弄される家族愛であり、その苦しさ哀しさを描いたものである。フランケンシュタインの家族構成にも、怪物があこがれる家族にも、異母兄弟の純粋な愛が描かれている。バイロンやシェリーの奔放な生き方に翻弄されるシェリーの女性としての思いが強く反映している。
フランケンシュタインは、錬金術を学びさらに産業革命以降のイギリスの自然主義的な思想や科学万能主義に影響され、科学研究に打ち込み生命を作れるようになった。フランケンシュタインによって生まれた怪物は、次々にフランケンシュタインを愛するものたちを復讐のために殺していくが、その間に、言葉を覚え、小説を読み、思想を身に付け、愛を知るようになる。
怪物の苦しみは、怪物の哀しみと一言で言えるような苦しみではない。怪物は言葉と理性を獲得していたからだ。フランケンシュタインも運命の罰を受けるように、生き続けながら苦悩をし、一人ずつ愛するものを怪物に殺されていくのである。
メアリーは体験を色濃く反映しながら『フランケンシュタイン』をロマン主義的な筆致で上品に描いている。

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2008/01/18

ヴァンパイアの薔薇

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贄の少女たちがが、恋月姫・アンジェリコのシスターたちに救済されて、エドはまた独りになった。
昏いナハトの中で次の季節を待つ。4月にはまたビスクの新しい子たちが訪れる。誰も見たことのない。

また表情から何も伺えなくなった。贄の少女たちをさらってきたときは、ヴァンパイアらしく血を吸い頬が日に日に薔薇色に染まっていった。その正直な行動が少し可笑しくもあった。
いまエドの顔は再び死人のように蒼く白く澄んでいる。僕は毎日一本薔薇を捧げることにしてい。朝になると薔薇はからからのドライフラワーのようになっている。萩尾望都の『ポーの一族』のごとく薔薇のエキスを吸っているからに違いない。薔薇のエキスは本物ならばもっとも高価である。抽出率がわるからだ。そして色は赤くはない。透明なねっとりとした重さをもっている。

エドよ次に目覚める日は?

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2008/01/18

『フランケンシュタイン』(1931) ユニバーサル

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最後は火炙りなのか…。原作の氷の果てに消えていくシーンとは少し異るな。

1931年はユニバーサルのモンスター元年。ベラ・ルゴシ主演の『魔人ドラキュラ』(1931)が成功を収めると、すぐに『フランケンシュタイン』(1931)が作られた。ドラキュラで異彩を放ったレンフィールド役のドワイト・フライがフランケンシュタイン博士のせむしの助手役、博士の友人のワルドマン博士に、バンヘルシング役をしたヴァン・スローンが演じている。二人とも迫真の演技。特にフライは不気味な怪物性を発揮している。ベラ・ルゴシがフランケンシュタイン役を断ったために、ボリス・カーロフが抜擢された。下済み役やだったカーロフは大抜擢にもかかわらず、そしてくせ者俳優たちに囲まれても臆することなく堂々と演技をしている。言葉の怪物の喜怒哀楽を見事に演じている。ふと歌舞伎役者の市川左団次に似ていると思わせるところがある。(予断だが市川左団次、坂東玉三郎主演の『天守物語』で鬼の役を好演している)
フライもスローンも主役達を食う勢いで、役者の演技だけを見ていても楽しめる。原作の言わんとするところからはすでに離れているが、映画にはオリジナルの物語があって作品としては『魔人ドラキュラ』よりも上かもしれない。口の利けないモンスターを物語に絡めていくのはなかなか難しいが、最初にして成功しているのは、役者たちの起用があたっているからだろう。

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2008/01/17

初雪だ

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はらはらと雪舞う気配に自転車を走らせ浅草寺まで。着いて夜空を見上げるちょうどまた雪が降ってきた。
春信に描かれた江戸美人、浅草寺裏の楊枝屋の娘本柳屋お藤が、夜毎、浅草神社のお狐のあたりを歩いていたかもしれない。そおっと浅草神社の今戸焼の狐のあたまをつるんと撫でた。

   

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2008/01/16

『ドラキュラ血のしたたり』(1971)ハマー・フィルム

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『ドラキュラ血のしたたり』(1971)
双子の姉妹、マリアとフリーダのスチール写真を見て反応する人は多い。双子には何かしらの神秘性がある。

双子の姉妹は、メアリー・コリンソンとマドレーヌ・コリンソン。『プレイボーイ』1970年10月のはじめての双子のプレイメイト。ハマーらしいお色気のために起用され、文脈なく下着を脱がされたりしている。フリーダは奔放で、吸血鬼のカルンシュタインに惹かれて吸血鬼にされてしまう。マリアは貞淑で真面目である。
16世紀の英国が舞台で、幕開けからいきなり魔女狩りがはじまる。清教徒のグスタフ(ピーター・カッシング)が魔女狩りを行っている。吸血鬼の物語がはじまるまえに、グスタフの魔女狩りがあって、それが吸血鬼狩りにオーバーラップしていく。魔女狩りに証拠があるはずもないのと同じように、吸血鬼らしいとなると火炙りにしよとする。姪のマリアをフリーダと間違えて火炙り寸前にまで追い込む。
グスタフは妻に「あなたは何も分っていないわ。殴るの?」「分らない。罰は必要だ。私がどんな気持ちで…」とグスタフが言うとこんどは妻が「分らないわ」と返す。権威をかさにきた男性的な強引さにここではっと気づくグスタフ。
昔の英国の感じがでていて面白い。ピーター・カッシングは実際にも敬虔なクリスチャンで、グスタフの役柄を真摯に演じていて、ともすればエロス+ホラーだけになってしまいそうな展開を、下支えしている。
『ドラキュラ血のしたたり』(1971)は、『ヴァンパイア・ラバーズ』『恐怖の吸血美女』というハマーの『カーミラ』(シェリダン・レ・ファニュ)を原作にする3本目のフィルムであるが、もちろん物語は踏襲していない。カルンシュタインという名前が使われているくらいのことである。

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2008/01/16

終われない闇

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ヴァンパイア展のパート1が終了したが終われないという感覚が自分を支配している。

ヴァンパイア展が終われないという感じではなく、森村泰昌がここに至って使命感のような感覚に追い立てられるようにフロントラインへ出ていく、というのに少し似ているかもしれない。いくつものトラップをかけられて闇に堕ちた。トラップはおそらく一人を狙ったものなのだろうが、それが一人にとどまらず全体を貶していくということを意識していない。貶めるのは自分でもあるのにそれが分らない。堕ちた闇の中で蠢くのは楽しくて良いのかもしれないが、この時期にそれはまずいのでは…と、思っている人たちがいる。たぶん森村泰昌もその一人だろう。情緒や哀しみを享受するDNAコードを何故にか喪失して見えなくなってしまったものがある。それは自分のコード喪失なのだが、見えないならないということでしょう、情緒やディテールのアンジュレーションなんて関係ないでしょう、それは高踏派の幻想にしか過ぎないよと、単一の感覚に決め込んで楽をしようとする。闇はさらに深くなる。単純なはずなのにトラップは複雑怪奇なものをしかける。自分にも引っ掛かってくるのに。感覚の良いアンジュレーションは実は単純な快楽でできているので、静かに眺めているとすっと身体に入ってくる。闇と享楽の差は大きい。コードを喪失して分岐したのだからもしかしたら戻るのは難しいのかもしれない。それはそれで仕方がない。だが相手を否定してはいけない。自分の後ろめたさを肯定するために。

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2008/01/15

トークショウ 石田一+菊地秀行

石田一さんと菊地秀行さんの吸血鬼トーク。吸血鬼ものはクリストファー・リーの『吸血鬼ドラキュラ』(1957)につきると。山本タカトさんもhttp://www.gei-shin.co.jp/comunity/07/index.htmlで、リーのドラキュラにはじまって、今もそしてこれからも吸血鬼は、自分とともにあると書いている。


クリストファー・リーの『吸血鬼ドラキュラ』(1957)の衝撃は、良く分る。しかしこれほどまでに影響力が強いとは思っても見なかった。どうしてか?という深いところでの感覚的理由を知りたいと思った。

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2008/01/14

石田一 丸尾末広

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自分に言いきかせて忘れないようにしようと思っていることがあって、現場の正解、地べたの感覚がまず第一で、そこから雑誌を作るということ。その現場での体験とずれない見方で、映画や本や作品を見ること。それは観客の立場とも違うし、作家達の立場とも違う。

今日は、石田一さんと丸尾末弘さんの対談だったが、一番、リアルに感じたのは、「体験」についてだった。若い頃に、吸血鬼でもどの映画に感動したか、心動かされたかということがあとの見方を大きく左右するということだ。理屈が動く以前に心が動いたものが何だったかということだ。僕の場合、映画体験は、「昨年マリエンバート」「欲望」という映画で、自主上映会やそれに近い形での上映を探して見て歩いたのが原点だ。

石田さん丸尾さんは、怖い映画、とくにハマーの映画に擦り付けられたようだ。たぶん今日、対談に来てくれる菊地秀行さんも、来月来てくれる黒沢清さんもそうだろう。吸血鬼映画体験が、基本的にクリストファー・リーとピーター・カッシングからというのはなかなか興味深いことだ。この体験を共有する人たちは意外と多いのではないだろうか。そしてクリエイターの人たちに。とすると、何かの変化は確実に起きているという風に直感する。

そして夜想のヴァンパイア特集が、ハマー以前に遡っていったというのもちょっと意味がある行為かもしれないと思う。今日の対談の先には、考えることがたくさん在る。イギリスで成人指定だったハマーの映画を、日本の子供たちが盗み見ながら、育ったのだ。

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2008/01/14

トークショウ 丸尾末広+石田一

トークショウは面白かった。僕自身にも。
いろいろ考えが進んでいく、話している間に。映画は時代を写す鏡でもある。


石田さんは筋金入りの映画好き、ハマー好き、吸血鬼好き。好きだからこそいろいろ集める。好きなものだけ集める。bisに展示して在るライフマスクも、例えば、この映画を撮った時のメイクのためのマスク…そこからのライフマスク。単に顔を集めている訳ではない。うーん、いいなぁ。


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トークショウに間に合って、丸尾末広「ヴァンパイア・パノラマ」ができ上がった。大判吸血鬼カード6点と70センチを超える吸血鬼パノラマのセット。絵はがきと、吸血鬼の絵はがき立てのセットになっている。会場のみの販売。


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2008/01/13

『癩王のテラス』 三島由紀夫

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手紙がとどきました。

蝉の声がサイレンのように高いトーンで鳴り続けていてアンコール・トムを離れて日本に帰ってきた今もじんじんと熱をもっています。向こうから頼りをすればよかったのですが、黴と巨大な石の廃虚にただただ茫然としてあっというまに1週間がたって日本にもどってきてしまいました。

私のなかの『癩王のテラス』が一気に押しつぶされてしまいそうな哀しさを覚えたからです。不思議な日本語を操る少年のようなガイドを選んだのが間違いだったかもしれません。姿とは裏腹に暑いからと日蔭ばかりを歩き、やすんでは煙草をすう投げやりな態度に、精神に脂肪のついた中年男を見ました。怒るのも忘れてあきれ果て、すたすたと歩き出したのは良いのですが、道に迷い、結局どこがテラスだったのか分らなくなってしまいました。内戦でかなり荒れ果てた風景からは、黄金の仏像も癩王が立ったテラスの残照もなく、蝉の高いトーンだけが私に残された唯一のものとなって残りました。少年が胸に蝉を入れている話を昨日、教えてもらいましたが、胸に蝉を入れると、石の墓標の上を飛べるのですね。
この甲高い蝉の声には何か魔力がありましょうか。癩王も絶望の中にこの蝉の声を聞いていたのでしょうか。目も見えなくなった癩王は蝉の声の向こうに転生する来世を見たのでしょうか。癩王は来世を信じて絶望などしていなかったのでしょうか。私にはまだ分りません。手の中でヘッドが形を見せてくる頃に何かが見えてくるかもしれません。

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2008/01/13

『ドラキュラ血の味』(1970ハマー) 

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ドラキュラの物語が、顴骨堕胎されている代わりに、ハマー・フィルムのドラキュラシリーズには、ヴィクトリアン朝の風俗がかなり描き込まれている。



メイド姿やクリノリンスタイルの衣裳、そしてロンドンの町並み、貧乏な子供たち、そしてヴィクトリアン朝の男の建前の厳格さと裏で娼婦の館にかよってしまうような猥褻さが描かれている。デートをして家に帰ると、不気味な男の影。ドラキュラ登場かと思うと、父親だった。父親は、娘を襲うようにして説教をする。そこには妖しいセクシャルなドグマが漂っている。アリス(娘)私の鞭を受けろ、といって迫る父親には、サディスティックなハラスメントがある。これは、まさにヴィクトリアン感覚で、原作の『ドラキュラ』からは遠くなっている物語が、意外なところにリアリティがある。この映画が描かれた1970年のちょうど100年前がヴィクトリアン朝になる。ちょっとした時代劇の要素もあるのかもしれない。

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2008/01/11

『ハライソ 笑う吸血鬼2』 丸尾末広

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ハライソを読んだら、夢を見た。部屋中に蝉がとまっていた。大きいのやら小さいのやら、びっしりとまっていた。身体が震えているので啼いているのだろうけど、声はしない。障子から月の光が射していた。


外には浮游して高い梢からこちらを見下ろしている少年がいるのだろうか。
袋状の仮面を被っている少年が這いずりながら近づいてくる気配がする。

そこで僕は目が醒めた。耿之介少年の、白いシャツの胸のポケットに忍ばせた蝉が啼く。『ハライソ』のシーンが脳裏に焼き付いたからだろう。

決して大人にならない少年と少女。吸血鬼だからではなく、丸尾末広の少年は永遠に少年であるのだ。老人の変態性を兼ね備えていても。読む度に夢魔が甦る。幼いころ鎌倉で育った記憶の中の、そして浅草に漂っていた饐えたような空気の臭いが。
少年と少女たちの吸血譚。

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2008/01/09

恋月姫 

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岩塩のカタコンベの中は思ったよりも涼しく、血を吸われたばかりの少女や少年は
息吹を失った時のまま。

写真集や展覧会の企画が少しずつ前へ。

yasoは恋月姫さんと出会って人形への思いを深化させた。そしてコンセプト・ドールを付帯した特装本yasoを作り、展覧会をいくつもいくつも一緒した。その特装本のなかに入っていた特装本のap版がビスのショップに置いてある。中身はyasoのドールだが美麗な表紙に変わっている。その特装本に恋月姫さんのサインを入れてもらった。

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2008/01/09

吸血鬼 三浦悦子

DSC03276.jpg ¥100,000

bisの会場に入ると何やら気配がする吸血鬼の花嫁の隣に吸血鬼の首が置かれていた。三浦悦子さんが新作を届けてくれたのだ。
何やら鬼の風もあり、しっかりと顔がこちらを見ている。

三浦悦子さんの人形は、展覧会を境に微妙に変化した。表層と内面のバランスが一定ではなくなってきている。作家の普通なら問題かもしれないが、三浦さんの三体の吸血鬼テーマの人形を見ていると、それぞれに変わっていることが、吸血鬼であったり、吸血された花嫁であったりと感覚の変化なっているので、良いのではないか思う。


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2008/01/09

笑う吸血鬼(2000) yasoヴァンパイア+

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『笑う吸血鬼』丸尾末広 

目玉を舐める
飴屋法水のグランギニョールの芝居では、役者がそのシーンを再現した。

目玉って、好きっていう感情で舐めれるものなのか…。ちょっと衝撃だった。
丸尾のイメージには破格のものがある。『笑う吸血鬼』では舌を切って吸血鬼の交わりをする。そこかな。

昭和初期の匂いが仄かにする。エレファントマンのマスクに、むしろ江戸川乱歩におびえた、横溝正史におののいた
昭和の子供たちの腐った町のアンダーグランドを感じる。
ここまま平成の少年たちが起す殺戮の現実を思わせるが、毛抜の差で丸尾末広は絵空事だ。そこが耽美でとてつもない。
少年は殺意を煽られるのではなく、煽られて火照った裸体の身体をベッドに横たえて悶えるのだ。妄想のなかで。

写し取られた谷中銀座や屍体の絡まっている不忍池の蓮の根や上野公園の片隅にある奏楽堂が
その現実の方が絵空事になる幻想を丸尾末広はもっている。そこにある現実だから妄想は限りなく闇を抱く。
風景こそむしろ事件なのだ。吸血の。

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2008/01/08

『モンスター・ムービー』 石田一


メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』 フランケンシュタインと怪物の話
何故、男の怪物ではなく女の怪物を作らなかったのか…とは石田一らしい設問。答えは本の中にあるが、僕は別の答えを考えている。
メアリー・シェリーを座右の一冊にしている女性作家は多い。

理由にはいろいだろうが、いろいろすぎて深い闇すら感じる。
ヴィクトリアン朝の時代を生きた女性の姿が映されている。
『ドラキュラ』には男性から見たヴィクトリアン朝の男と女の姿がある。

バイロンは奔放な作家としてヨーロッパ中に知れわたっていた。
ポリドリの『ルスヴァン卿』のモデルとして。
そのグループにいてメアリーの思っていたことは…。
ケン・ラッセルの『ゴシック』にその風景が少し出てくる。
『ドラキュラ』『フランケンシュタイン』も創生にして今も現役だ。というか越えることができないなにかがある。それだけの作品は、逆の使われ方をする。怪物は本の紙を出て独り歩きをするのだ。だから派生していくモンスターたちは必然元の闇が隠されていてコピーされていく。映画も小説もその視点から見ると、また別の楽しみがある。それを教えてくれたのは本としての丹治愛だ。

一方、石田一さんはハマー、モンスター、ホラー、SFの映画通にしてコレクターで、菊地秀行さんとともにコレクター、筋金入りのオタクだ。何より凄いのは、映画の怪物たちを怖れ、おののき、そして愛してきたことだ。石田一さんのポスターのコレクションは未曾有のもので、本はポスタを見るだけでも意味がある。ほんの一部を借りてきてbisにも展示しています。
『モンスター・ムービー』にはポスターやスチールが満載で、ポスターを見ていると製作の裏や係わった人たちの情熱が感じられる。スチールは、映画のシーンにはないポーズだったりもするが、それがまたこたえられない面白さだ。


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2008/01/05

蝕が訪れる季節に

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パワープレイでしか抜けていけない季節がある。
実は今もパワープレイが全盛のときかもしれない。

ただし今、時代が違うと思うのは、パワーがインナーなところで使われるというころだ。
それは自分でも意識していないことが多い。
だから効果もある。一見すると。(本当はそんなことはなくて自分に返ってくるんだと思うが)

インナーな
パワーは一定の量が溜まり臨界点を超えると
爆発する。
外にでてしまうのだ。
間違えるようにして出た目標のないパワーはオーバーフロウして磁場を狂わす。

そのとき蝕が訪れる。

だれも望んでいないのに。

その蝕すら払うパワーがあるならそれを自分のものにしたい。

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2008/01/01

『少女写真館』 飯沢耕太郎


集めた少女写真が、飯沢耕太郎の収集した絵はがきが中心なので、無難なエロスにとどまっている。同じヴィクトリアン期でも高橋康成の『ビクトリア朝のアリスたち』には、少女娼婦や見るからに危ない少女ヌードが収集されている。写真は見せるものではなく秘かに保持された。だから密室の、被写体と撮影者の関係が妖しく残っている。絵はがきになると社会通念が反映される。ものたりないのはあたりまえだろう。

巻末の対談が面白い。本音を言わない飯沢耕太郎と、突っ込む伊藤 比呂美。そこでは少女についての男性からと女性からの視点がまったく絡み合わず展開している。その対立点を一つずつ検討していくと、欲望の発露に不自由になっている困惑する男性の姿が浮き彫りになってくる。それは飯沢耕太郎という男ではなく、時代に生きている男性としての不自由さだ。それは良いとか悪いとかの問題ではなく、そうなってしまって語られなくなってしまっていることの問題の方が大きい。


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2007/12/31

『幻想小品集』 嶽本野ばら  

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ドライフラワーにしていた3年前の薔薇の葉が全部おちて、
薔薇の杖ができたとメールがとどいた。薔薇の杖か…。

『幻想小品集』 嶽本野ばら フェティッシュ+

ゴスロリは、次第に分化をとげている。甘ロリ、ロリ・パンクとか。
そして思うのは、本家のゴスロリも変化するのではと思う。

変化というのではないかもしれない。
ゴスロリというファッションのもとに隠していた別の本性を顕にするというころだ。

嶽本野ばらの作品にも変化が見られる。『幻想小品集』にそれが如実にあらわれている。小説がゴスロリの変化を助長するのか、それとも変化を反映したものなのか今は、判断がつかない。

嶽本野ばらは『幻想小品集』でフェティッシュを+した。フェティッシュは、ゴシックがゴスになったように昔のフェティッシュとは大分異る。もちろん嶽本野ばらのフェティッシュはゴスロリのすぐ側で変化をとげた方のフェティッシュだ。フェティッシュのエクスタシー。麻痺と覚醒がテーマとして描かれている。

形式は幻想小説だが、その幻想小説のテーマや形態もまた泉鏡花や澁澤龍彦とは異っている。幻想文学で、嶽本野ばらが踏襲しているのは、体験が重要で、体験からいかにジャンプをかけるかという作家の書く態度である。多くの幻想文学の作家が、そうではないと言うのと同じように、嶽本野ばらは言うかもしれないが、体験と現実が重要だ。

だから薬…という結論にはならない。嶽本野ばらは、ドラッグの作法をフェティッシュに描いている。どんなドラッグを、どんな風にというようなドラッグのフェティッシュなのだ。飲んで酔っぱらって書く幻想じゃない。もちろんそんな幻想の作家は存在しないが。ドラッグフェチとしての幻想小説だ。

この小説には睡眠導入剤などのドラッグの話がでてくる。yasoの前身の2マイナスが詳細な特集を出している。今は、所持もおそらく記述もまずいだろう合法ドラッグや睡眠導入剤などの詳細が特集されている。
『幻想小品集』には、夜想『耽美』に掲載された作品も収録されている。

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2007/12/31

『アラジンと魔法のお買物』嶽本野ばら


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『アラジンと魔法のお買物』 嶽本野ばら  yaso耽美+
エルベ・ギベールが友人とのプライベートなやり取りを含めて
暴露しながら小説にしたように
ソフィー・カルがストーキングした写真を作品にするように
(そして面白いのはその二人が京都であっていた)
嶽本野ばらはBaby, the Stars Shine Brightを着るために『下妻物語』を書く。
いや正確な言い方ではない、Baby, the Stars Shine Brighを着て書くのだ。
嶽本野ばらはあとがきで小説を書くために買うといっているが
そうではないだろう。

『アラジンと魔法のお買物』に書かれている買物は作品と同じレベルで存在している。
もしかしたら物が優先しているだろう。

面白いのは『アラジンと魔法のお買物』に出てくるおかいものが宮下マキ『short hope』に写っていることだ。
『short hope』は嶽本野ばらを撮った写真集と言われているが同じく嶽本野ばらのものも写っている。
写っているのは嶽本野ばらの小説そのものである嶽本野ばらのものが写っているのだ。
美しい転倒。幻想の転倒。


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2007/12/29

中国茶

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他のお茶を飲んで始めて自分に宿った感覚が分った。
中国茶を作法どうりに入れてもらって口にした瞬間
入れた人の手の感じ、お茶に対する感じがすっと感じた。

お茶の入れ方は人それぞれ 僕のお茶の師匠はラフっと入れる。師匠は星川京児さん。他人の入れ方を見ていると違和感が在るほど、僕は星川流に慣れている。良かったなと思う。僕はラフなところでチューニングを合わせるのが好き。それでも強いお茶を14せんとかまでゆっくりと変化を楽しみながら入れていく。1せんずつ味が異るのでお茶は面白い。その1せんずつの味の違いがわかるのようにしてくれたのも星川さんだ。あーせー、こーせーというのは一切言わず、質問に答えてくれるだけだけど。それがいい感じに手を延ばしてくれた。

お茶にはゴット・ハンドとデビル・ハンドがあって、どんなベテランの人でも巧く入れられるとは限らなくて、どうしてもお茶が美味しくなくなってしまう手があるらしい。それは薄々自分も知っていて、なんか悲しいと言う人がいると…。余り上手でなくても美味しく入る人がいる。お茶の舌は、お茶を言える経験で繊細になる。それもどう教わって、どう入れていくかということによる。

いろいろな感覚に蝕が訪れている中、感覚が繊細になっていくものがあるのは嬉しいことだ。感じることができる、把握することができるのは、快感であるし、今、生きてて良かったな思うことでもある。

星川京児さんは民族音楽のプロデューサーで、酒飲みで、お茶飲で、グルメで、散歩人だ。

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2007/12/29

『ベルセルク』14 三浦健太郎 yasoヴァンパイア+

吸血鬼はスラブの民間俗説があり
バイロンの名を騙った『吸血鬼』があって舞台へ展開し
ストーカー『ドラキュラ』がある。

yaso本紙にも繰り返し書かれているように
ストーカーの『ドラキュラ』は15世紀ルーマニア地方、ワラキア国のヴラド3世をモデルにしている。
ドラクルという別称をもっていた。ドラキュラはそこから来ている。

ヴラドには吸血鬼の噂も事実もない。ただ幽閉された時代のトルコ軍の風習を逆手にとって敵兵を串刺しにして晒したということはある。
少ない軍勢でトルコ軍を西欧世界に入れないように戦っていた、ある種の英雄である。
非常に興味深い武将であるので、もっとたくさんの映画や小説があっても良いと思う。できればストーカーの『ドラキュラ』と切り離して単独で描いてもらいたい。

『ベルセルク』を読んでいてヴラドに似ているなと思っていたが、14巻の巻末に原型となる三浦健太郎19歳のときの作品が収録されていて、ここにブラド大公が登場する。ベルセルクはそのブラド大公に敵対するのだが、ヴラドの影はベルセルクに少なからず影響を及ぼしている。
『ベルセルク』には妖怪がたくさん出てくるが、当時のワラキア地方にも妖怪が跋扈していたかもしれない。少なくてもヨーロッパの人たちは、辺境の地方にそんなイメージを持っていたに違いない。その妄想がストーカーの『ドラキュラ』を世界標準の原型にしたてあげたのだろう。

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2007/12/28

アドルフに告ぐ Aufuf au Adolf(Studio Life)

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Aufuf au Adolf アドルフに告ぐ(Studio Life)
+++++

役者たちのストレート・プレイも良いし
手塚治の『アドルフに告ぐ』を解釈しきっている倉田淳の脚本・台本も良いし
2時間50分あっという間だった。

日本からドイツを見るとき
パレスチナを見るとき
この手法しかないし、正直な方法だと思った。
それは挑戦心溢れる一生を送った手塚治の気概であり
またそれを感じ取った倉田淳の姿勢だ。

ヒットラーが歴史となってしまっている
今こそ
表現ができる
今こそ
表現しなくてはならない
そんなことを感じる。

青年だけで結成されているStudio Lifeは
耽美な作品を上演していることもあり
あるジャンルに分類されていると思うが
今どきの言葉で言えば
普通に面白いということをもっといろいろな人に知ってもらいたい。

物語の流れや主張をしっかりと
舞台に乗せていて
役者たちも物語を表現するために演技している。


yasoヴァンパイア特集に
☆倉田淳withスタジオ・ライフ「ここにも孤独なひとがいる」
というインタビューが掲載されている。

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2007/12/28

『blood the last vampire』(2000)   yasoヴァンパイア+

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blood the last vampire(2000)
☆☆☆☆

1966年 ベトナム戦争中の日本。
銀座線の浅草駅がリアルに描かれる。地上から電源をとっていた旧銀座線の車両はカーブで社内の電灯が一瞬消える。
車両に乗っていた小夜が日本刀でヴァンパイアらしき男を殺戮する。

ヴァンパイアのモチーフをこなしていない日本の映画にあって


ヴァンパイア譚としてオリジナル度が高い。

小夜の都合をもう少し分らせても良いかと思うが
刀でヴァンパイアを刈るところ
鬼…という言葉がでてくるところ
小夜が左利きというところ
オリジナルのセッティングで
ここから何かが生まれるほどのポテンシャルをもっている。

横田基地の娼婦たちのありようが
切り裂きジャックのモチーフを日本に写してきた感じで
導入としてドラキュラ成立のヴィクトリアンの闇を感じさせる。

タランティーノの『キルビル』に影響を与えた。
2008年、実写版が制作されている。

ここがターニング・ポイントなのか
ちょっと考えてみたいが
おとこ性がセーラー服少女の裏に見えているのと
何故、吸血鬼か、何故、殺すのかという
吸血鬼が表現される源泉を飛ばしているのが
気にかかる。



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2007/12/27

森村泰昌 荒ぶる神々の黄昏


シュウゴルームの入口には
独裁者たちの肖像
ヒットラーが演説をし懺悔をしている。

この作品はニューヨークにも行ったそうだが
勇気がある。

アメリカは
今、
逆、ユダヤ人問題となっている。

ユダヤ資本の代弁として
アメリカはイラクに報復のホロコーストを行った。
その中で
ヒットラーを表現することは
ある種
アメリカ、ブッシュへの大きな批判になる。
そして
それはアメリカの現代美術ができないことだ。

いま
モダンの源泉にある
ヤバイ部分に触ることは
重要だと思う。

森村泰昌の仕事は
本当の意味での
意図ある美術のアイデンティティを顕にしている。

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2007/12/26

ホラー小説でめぐる「現代文学論」

ヴァンパイアは
メディアとして非常に興味深い
まだまだやりたいことがある

現代のヴァンパイアものにも
いろいろなものが写しだされている

編集をしていて
どうしても見たいと思ったのは
テラーからホラーへの
変化だ。

変化は、何か大きなものを示してくれそうだ。
今の、アメリカ映画のあり方
そしてそれに何故、心を奪われるのかとか。

イベントでは
石田さんや菊池さんが
そのあたりを
語ってくれるだろうからとても楽しみにしている。

ホラー小説でめぐる「現代文学論」 は、そこに切り込みをいれようとしている本だ。
「壊れ」ている現代の人間とホラーの関係に
言及しているが

僕にとっては
納得させてくれたというより
たくさんの疑問を
セットしてくれた。

いろいろ考えていきたい。

妄想や幻影は
現実を生む
僕はそう思っているので
作品が時代を写すのではなく
作品が時代を生むのだと思っている。

もちろん時代の後から書く
エンターテイメントのジャンルは別だ。

そうではなく
時代がまだそうなっていないのに描かれる
幻想や妄想の作品について
考えたりしていきたい。

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2007/12/26

ドラキュラの世紀末     yasoヴァンパイア

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『ドラキュラの世紀末―ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究』 丹治愛 
☆☆☆☆☆

お会いしたら非常にシャイな教授で
人前で話すの好きじゃないんですよね、インタビューもちょっと
と、おっしゃる。

『吸血鬼幻想』種村季弘が
ぼくたちの吸血鬼のバイブルだった。
今も、そうかもしれない。
この本で夜想は育ってきた。


しかし今では資料が抱負になり
丹治愛は新たに公開されたストーカーについて資料をふんだんに使いながら
さらにビクトリア朝の社会、経済、文化背景を研究して織り込んでいる。
非常に面白いし研究方法としても
注目すべきだ。



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2007/12/26

森村泰昌 荒ぶる神々の黄昏

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森村泰昌さんの
『なにものかへのレクイエム・其の弐』

毛沢東、ゲバラ、アインシュタイン、トロツキー、レーニン、ヒットラー。
荒ぶる世紀の、荒ぶる男たち。益荒男ぶりがとても良い。

モノクロの一発撮りの作品だ。毛沢東だけ、コンピュータ合成。毛沢東らしく。
パフォーマンス性を背後に秘めた作品は
森村泰昌の原点を感じさせ
改めて作品を作り続ける意志を感じる。

レーニンには
少なからず
かかわりがあって
それで
夜想のヴァンパイアにも

ヴァンパイア=森村泰昌=レーニンが
登場している。

モノクロのザクッとした感じが
21世紀から
時代を見ている森村さんの正直な感覚が出ていて
所有したいくらいの気持ちになる

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2007/12/25

月夜の出来事(1987)

yaso・ヴァンパイア・映画追加リスト ☆☆☆☆

夜の、月のでているシーンが美しい。
一方、陽の光を浴びてよろよろと身体からスモークを撒き散らす昼の耽美も備えている。

ジャン・ジャック・ベネックスの『溝の中の月』と同じで
耽美で拘りが満載の映画だが
興行的には今、一つだったようだ。

吸血鬼を西部劇でという設定を聞くだけで見たくなくなるが
これがなかなか。

馬の足のアップが
耽美であるというのは
ちょっと他では見られない。

女流監督とは思えない骨太さもある。

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2007/12/24

ドラキュラ ストーカー ☆☆☆☆☆


新妻 昭彦の翻訳と丹治 愛の解説。

これまでの平井訳は抄訳だったため
完訳がどうしても必要という熱意によって刊行。
出版社もよくぞ。

ゆっくりと読み解きたいのは
丹治愛の解説。
時代背景、小説の背景…
ストーカーのドラキュラが成立した背景が
網羅されている。


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2007/12/24

丸尾末広

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丸尾さんは夜想にも発表していない
新作を用意してくれた。
そしてコラージュの新作も。

『笑う吸血鬼』の原画も運び込まれた。
これだけ作品が一堂に揃うのは久しぶりではないだろうか。


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2007/12/22

ヴァンパイア文学800・アート

吸血鬼/ヴァンパイア文学800・アートの
選考会。表彰式が行われた。たくさんの応募、ありがとうございました。
東雅夫さんと菊地秀行さんがいらして大盛り上がり。いきなりヴァンパイアズ・トークの炸裂になりそうになったが30分ほどで選考会へ…。

800字の中に
幻想が織り込めるとは…。

吸血鬼というモチーフも
使いながら。

朗読された800字の文学は
また別の声をもっていた。

いろいろ考えさせられることが多かった。

何より
作ることのために作られた
純粋な感覚があって
ほんとうに
掌の上で
輝くような魂に感じられた。

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2007/12/21

吸血鬼の花嫁

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三浦悦子『吸血鬼の花嫁』

また
少し作品のディテールが
変わった。

変化は
かりっとした
何か…。

吸血鬼の花嫁は
血を吸われることを拒否して
美しい。

自分で血の口を開ける。

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2007/12/19

追悼 若桑みどり

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夜想を創生したころに
心底、力になっていただいた方の一人が
また
身罷ってしまった。


昨夜、ふと文章を書いていただこうと
思いたち
どうされているのかと
ネットで検索して
若桑みどりさんの死を知った。

10月に心不全で亡くなられていた。

アカデミックな研究をされている方たちが
敬遠していた夜想に
しかも『屍体』特集号に
原稿を書いていただいた。

思いではいくつもいくつも
あり
そして自分の美術の意識の形成に大きな影響をいただいた。

インタビュ−中に
若桑さんの猫が膝に飛び乗って来た。
話しをふと止めて
どうしてかね…誰の膝にも乗らないのにと
首をかしげられた
以来
若桑さんの家に行く度に
猫を呼びだしてくれるようになった。
僕は、
自分が若桑さんの猫と遊ぶのを見ている
若桑さんが好きだった。

なんであんたみたいな
アングラが私の原稿を必要とするの?

僕らにない歴史的な、大局的な見方は
極地的な視点で
動いている
僕たちにはとても必要なのです。

若桑さんは『夜想』のト−ンに合わせないで論文を書いてくれた。

ちょうど現代美術が日本に紹介されていた80年代初頭
ボイスやビュレンの公開討論会に
果敢に質問を投げ掛けていた若桑の姿は今でも鮮明に覚えている。
あくまでも美術史家の姿勢、イコノロジストらしい
質問をしていた。
トレンドに乗っている僕たちにはとてもできない質問だった。
そうそう
パオリ−ニの作品を読み解いたと
嬉しそうに笑っていたこともあった。

夜想があくまでも現場で
感覚的に紙面を作っていることを
猫が遊んでいるのを見るように
見てくれていたような気がする。


あの頃、
僕は、イタリアも、イタリア絵画も体感的に分らなかった。
イタリアに行って
絵を見るようになって
ようやく
馬鹿な質問の一つもして
何言ってんのよと一蹴されるくらいになったかなと
復刊夜想にまた甘えたお願いをしようと
思っていたばかりのことだった。

時が
自分を越えていくようになった。
できないことは
何もないと思っていたが
こうやって
時に負けていくのは
とても哀しい。

あと少し。


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2007/12/18

ミロク

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踊りの抽象度は難しい
モダン・ダンスのようにいったん
身体に入れて個的に

発露するというやりかたもある

抽象度をコンテンポラリーとして
表現するというのは
ちょっと見たことがない
勅使川原三郎がたどりついた一つの境地だろう

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2007/12/14

開場

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yasoのギャラリーに
ヴァンパイアの作品が勢ぞろいした

再び
yasoの季節がはじまる

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2007/12/13

プラトーン

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『シャドー・オブ・ヴァンパイア』の
シュレック役を演じたデフォー。
思いだして
『プラトーン』を見直した。

デフォーの演技はやっぱり凄いなと思う。

感動もする映画だ。
でも

忘れてはいけないのは
可愛そうな差別されるアメリカ兵
を描いているということで

決して
侵略されたベトナム兵の
視線から描かれたものではない。
ということだ。

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2007/12/12

ヴァンパイア・ドール

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恋月姫さんが
2体の新作を携えて会場に
到着した。

ビスに眠っていた蒼白の
ヴァンパイアの子が
密やかな息をはじめた

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2007/12/12

血の匂い

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糸が解れずに
いらっとして
カッターをふるったら
すぱっと指から血が吹いた

ああ
こういうことなのね
と、
納得した
意に反して

血は鮮やかなほど赤かった。

ぽたぽたと滴る血を見ながら
少し気分は落ち着いた

バンドエイドをして
二日
原稿を書いていると
腐った匂いが身体からしている感じがした。


身体を嗅いでみると
その
匂いは指の先からした。
傷は治っていたが
指の周辺からは
有機の鉄の腐敗臭がした

愛おしいものを
久しぶりに感じたような気がする。

吸血鬼は孤独に生きて
朝陽を浴びる
瞬間の愛が在れば
朝陽を浴びて滅びる

少し気持ちが分ったような気がした。


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2007/12/10

モンテクリスト伯

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アニメの
巌窟王はベクターの『虎よ虎よ』を下敷きにしたかったらしいのだが
権利をとれずに
その原作のモンテクリスト伯を使った

だからSF的なところと古めかしいところがある
うまくマッチしている。

ゆっくりと
原作を読んでいるが

連載新聞小説の
作り方の面白さを
味わっている。

モンテクリスト伯は日本では巌窟王と呼ばれた。
アメリカとフランスで映画にもなっているが
アメリカ版ははじまってすぐに
誰がモンテクリスト伯を陥れたかを明らかにしてしまう。
興醒めだ。
アメリカ的だ。

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2007/12/08

演技

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お客さんに自分を良く見てもらうキャラクターというのがある。
こういう風に演じると、わかりやすくて、好感をもたれる。
 書いているのは石田えり。

もっと言えば、上手な脇役という感じを観客に感じさせる演技もある。
名演
だと観客に思わせる演技もある。

それを越えての演技もある。
五代目の片岡市蔵さんは、余りの子悪党・悪役ぶりに
実生活までを疑われるほどったった。

『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』のデフォーの
シュレック役も
もうホント気持ち悪くなるくらい嫌な奴と思わせる演技で(というか思ってしまった)
脇役の名演などという
範疇を越えてしまっている。

あとさき考えずに
評判も考えずに役に向っている
役者を見るのは
気持ち悪いところもあるが
それが役を演じることであると
思う。

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2007/12/06

猫のホテル 表現さわやか『ポエム』

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最近
劇団内ユニットにおめにかかる
猫のホテルだけでなく
他にもある。

それが大体がお笑い系なのだ。
ストーリーは緩く組まれているが
コント集が連なっている感じだ。



演劇は見て、考えて
そして自分が変わるものだと
思っていた。

『ポエム』には
向こうからこちらに来るメッセージはない。
向こうからメッセージが来るんじゃなくて
こちらのメッセージを吸い取って成立している。

観客は
うん、そうだ、そうだ
ということのために劇場の暗闇に入るのだ。

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2007/12/05

野鴨

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イプセンの『野鴨』には、グレーゲルス・ヴェルレという正義をかざして、人にその正義を強要する人物が出てくる。欺瞞に充ちてはいるが、平凡では幸せに暮らしている一家をクレーゲルスは、正義の強要によって崩壊させていく。でも崩壊を意図した訳ではない。
その正義の振りかざし方は、何か今の日本にとても似ていると思う。アメリカの感覚が写ったのかとてもクレーム好きになった。それも無為のクレームだ。建前の…。

どうにか暮らしている家庭が崩壊するように、集団が崩壊するまで正義君としてふるまう。
あなたのためを思って言っているの。
全体のためを思って言っているの。
それは違う。自分のために言っているのだ。正義ではない。プロデューサの笹部は正義の欺瞞を見せようとしてこの芝居を作ったように思う。
でも『野鴨』に答えはない。

メジャーリーグプロデュース『野鴨』
2007年11月1日(木)~30日(金)
シアター1010

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2007/12/04

野鴨 2

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野鴨は撃たれると水の中に潜り込んで
水底の藻や水草なんかを手当たり次第にかじりついて
二度と浮き上がってこないようにする

そんな引きこもりのような
鬱症のヤルマークの

妄想のような
夢を


私も抱いていたような気がする

できないと
他人のせいにして…

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2007/11/24

ヴァンパイア

yasoの『ヴァンパイア』特集が書店に出て、2週間、反応はどうなのだろうか…。
相変わらず時間がかかって1年数ヶ月ぶりのyasoであるので忘れられていないかとても心配だ。

書店の様相は以前に比べて早いサイトで変化していく。変化に耐え切れるかどうか。

hpの文字も書けなくなっていた。正直、人の関係でまいってしまって、行動力がなくなってしまっていた。ずっとそのことを考え続けたが、何も分らないし、対応もつかない。

頭蓋の中に籠もっていたので、おかげで久しぶりに本や映画を堪能した。ヴァンパイアに反映されていると嬉しい。

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2007/09/19

誰もいない倉庫で

人がいなくなった倉庫から
今日はでれるかと思ったのだが
まだ少し手間がかかりそうだ。

9月19日
山口小夜子の誕生日。
お別れ会が築地本願寺で催された。

小夜子さんは
僕の誕生日に風のようにこの世から消えた。

秋に
展覧会と山口小夜子特集の夜想を約束して
作業に入っていた。

寺山修司も土方巽もボイスも
死は大きな衝撃だったが
どこかに死の匂いがしていた。
覚悟というには意識していないのものだが

小夜子さんに消えるという予感はなかった。

小夜子さんは
これからの若い人たちとユニットを組んでいた。
ディレクションされるモデルやパフォーマーから
自分の意志でつくる人になろうとしていた
それも若い人たちの才能を花ひらかせようとしながら
その思い切った姿勢に
賛同して
bisと夜想での特集を決めたのだ。
二人で
そして若い共同者たちと。

会にでたら
蟄居している倉庫から出れると
予感していたが
そうではなかった。

そこには同じような
体質が横たわっていた。


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2007/09/11

ディ−ヴォ


ちいさな箱のなかに
自分がすっぽり入れるようになってしまった。
箱に穴をあけて
地面の湿り気に触れてみる。

二度と開かなくても
よいのかなと思う。
この箱の蓋が。

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2007/09/02

棺の中に寝ている

昼間になると
ようやく少しだけ眠たくなって
棺に入って寝ている。

そんな生活が
もう三ヶ月ちかくたった。

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2007/06/26

一夜の夢に 人形の館 

ナハトの黄昏た空気の中に
静寂を装った
騒めきがあった

それは
新たに組まれた十数体の恋月姫人形と
恋月姫さん
宝野アリカさんが
人形とロマンチシズムの話しをしていたから

隣には
ヴァンパイアを思わせる
男の子の人形があって
その子がいる
ということが
私を元気づけた

人形は元々
人を裏切って存在する
だから
それ以上のない憂い

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2007/06/13

アディクション

形態は
移ろっていく
移ろいが常態。

頭で分っていても
なかなか対応できないことの方が多い。

断って
そして
居るからこそ
変化も
新しさも来る。

しかし人間は
既知感などという
いいわけをしながら

振り返る
振り返るということに
アディクションする

攻撃的な料理は
少々荒くても
美味しい
そんなことを言われた

誰も
何も言わない
秘かに切断するのみ

言ってくれることは
何かになる。

仮に
Fという記号が
灯台をオーバラップして
存在したとして
それを隠すことは
断以上の断になる

そのとき
クリスタルの灯台から
きっと
振り返ってはいけないのだろうなと
私は自覚する。

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2007/06/08

この先は


この先は
危険なのかもしれない
突然
クリスタルのお守りが飛んでいき
蛇の玉がころころところがっていった。

警告なのか
身変わりなのか

やはり危険な地域にいるのかもしれない

見えないという
危うさと
それを
危ういと感じている
さらに危うさと

感じているということは
何かそういったものが
存在するのだろう。

引くか?
久しぶりに思う。

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2007/06/05

金子國義さん

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屏風にさらりと
舞妓さんの姿を
描き終わって
何事もなかったかのように
所作をしてみせる國義さん

鏡花と雪岱と六代目と
そんな
交わりのなかで
粋が動いていた
帝都の息を
この人はもっている

蠢いている
思惑の中で
それだからこその粋を
嬉しく思う。


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2007/06/02

一度失ったもの

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一度失ったことがあると
もう一度近づくことが
怖くなる。
それでも近づく。
怖がっていると自分が思うのが嫌だから
それでも
最後の
一枚の皮層を残してしまう
その時
視覚は微かに
色を失って
モノク−ロムになる

それが良いことか
悪いことか
そんなことは分らない。
どうでもよい。

そのぴったりした距離が
失ったものの
重さを測ることができるだけなのだ。

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2007/06/01

感覚が甦る

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田中未知の『寺山修司と生きて』を読んでいると
寺山修司が身体をもって
上演をしていた
その身体性を感じる

ア−バスの写真の被写体を見つめて
その人たちの
生きていた世界の空気を
想像した
そして錯覚として空気の匂いを嗅いだと
思った
その同じ空気が
『fur』にあったりすると
自分の身体も
もう地上にはない
向こうの世界にあるのかと
ふと
思ったりもする。

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2007/05/29

嶽本野ばらさん

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雨が降りそうで暑い
梅雨に入るのだろうか。

嶽本野ばらさんが
展覧会を見に来訪

久しぶりにいろいろの話しをした
もしかしてこんなにゆっくり話すのは
大阪以来?

人形
クロソフスキ−
ゾンネンシュタ−ン
話しはどんどん飛んでいく。


青木画廊のサロンで
日常だった会話


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2007/05/29

骨をかじる


大きく引き伸された
嶽本野ばらの写真
上半身に
鎖骨が羽のようにのびている。
背に羽根をもつ種族は見かけるが
咽の下に
羽の骨格をもつのは異種だ。

人が死んだとき
骨を一つ盗んで握りしめた
猫が死んだとき
白い磁器の壺に頭蓋を置いた
鎖骨のことはずっと思っていなかった。

骨を噛んでミサに出た人は
どこの骨を噛んだのだろうか。

そして
僕の骨を齧る人はいるのだろうか
それは
どこの骨?


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2007/05/25

今日から始る

のに
また雨だ。
晴れお君から
雨男に変わってだいぶたつ。
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先日は
晴れ男、森村泰昌と
VSをして
負けた。
撮影は天気予報を覆して
雨が降らなかった

でも
展覧会は
満足のいくセッティングになっているので
大丈夫
これから
これから

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2007/05/21

何をしたいのか


何をしたいのか
どうしたいのか
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聞かれるたびにちょっと考える。
その時、その時で
でもそんないい加減なことではなく
何かはす−っと
繋がって流れているのだと
思う。
ただそれが自分にすら分らないということなのだ。

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2007/05/20

扉の向こうへ

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扉の向こうに
明るい光がある
のは、ずっと前のこと

扉の向こうには
鏡の彼方には
何もない
闇がある

だからこそ
扉の向こうなのだ

昔は
闇を思うとどきどきした

いま
それは懐かしいものになっている
親しいものになっている

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2007/05/19

蝋燭の

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蝋燭の炎
そして去り難く

天井桟敷のあったところは
今、
ヒルズの地下に

田中未知の寺山修司を読む

そこにしかない

そこにしかない

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2007/05/16

滴 滴り落ちて

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滴りが
形になる
そんな変化が好きだ。

滴りは
流れてしまって
形にならないことが多い。

滴りを
落としては
流すことを繰りかえしている。

今もだ。

時々
ふっと形のようなものになるときがある

可能性というものかもしれない。
そんな微かなものでも
形成変化が起きるときは
なにか
わくわくする。

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2007/05/12

こんな風に過ぎていくのなら

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こんな風に過ぎて行くのなら
それも悪くない
浅川マキの
ダ−クネスを覗きながら
いつか、また何処かで、なにかに出逢うかもしれない。


でも今日は昏い。
きっと今夜は世界中が雨だろう

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2007/05/09

光の

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闇の中に
地表から放たれる光があると
そこに惹きつけられて
ふと
佇んでいる。

前田哲彦に
10年早いよ
と言われて
あれからもう25年が経つ。

曲がりなりにも
何でも出来るようになった時に
蝋燭をつけるんで
この赤はいらないっす
と、言われた時に

紫を作る赤だと
言う前に

あの時の
言われた自分が浮かんできた。

あの頃
突っ張ってたな
実は僕は
10年早いって言われても
最初は誰でも素人でしょ。
そしてあなたとのキャリア差は永遠に変わらないから
早いって言うのはおかしい
と言い返した。

もちろん
10年早いと言うつもりはなかったけど
好きにやるもの
延びていく
一つの方法だから…。

でも言うことで
何かを掴むのが早くなるということもある。
どっちが親切なんだろうと
ふと
思ってしまった。


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2007/05/08

紫陽花は

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蒼い
よくある紫陽花の色を見たとき
原理というのは
いいものだなとふと思った。

紫陽花で満艦の
明月院の側の
ピアノ教室に通っていた頃
澁澤龍彦の家をなんとなく
探して
見つからなかった
いつもいつも探していた。

澁澤宅に
おじゃましたのは
つい最近
紫陽花が育ちそうな
湿った土壌だった。


時間のずれが不思議な感覚を呼ぶ。

寺山さんが亡くなってもう24年。
澁澤さんが亡くなって20年。

確実に止まっている時計がある。

見続けた僕は
何もしないまま
終わってしまうんだろうな。
ふと
そんなことを思う。


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2007/05/05

カフェ・ギャラリ−

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相談してくれたら
絶対に止めたのに
西瓜糖の大西さんが笑いながら
言う。

カフェ・ギャラリ−は

大変らしい。

聞かないで良かったのか
聞いた方が良かったのか。


カフェ・ギャラリ−の
せいではないが
何故か
感覚がざらっとした日が
続いている。

何かの残滓なのか
それとも予兆なのか。

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2007/05/01

遊園地事業団 ニュウ−タウン入口

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遊園地再生事業団のリ−ティング公演
ニュウ−タウンの入口
を見た。というより聞いた。
でもかなり動きもつけていて上演に近いもの。

これはおそらく14歳の犯罪
その背景になるニュウ−タウンの
かさついた地層についての演劇なのだろう。

そんな情報も見ずに芝居を見ていたのだが
ふっとニュウ−タウンの森が浮かんできた。
それは小さな森であり
そこにあるタンクだった。

実家の裏山が大開発されて
梶原団地が突然できあがったときの
失われた遊び場の森と
そこに埋めてあった
屍体のことを思いだした。

藤原新也の撮った
バット殺人事件の起きた
新興住宅の映像も浮かんだ。

その写真はペヨトル工房が出した
EP-4『昭和崩御』のジャケットになった。

街が作り出す
ネガティブ
住宅からタウンへ
そしておそらくヒルズへ。

森の中の
屍体は次第に陰惨な
姿をするようになる。

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2007/04/28

等価交換

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『鋼の錬金術師』にでてくる
等価交換という言葉
良く使われている。

錬金術を卒論に選んで
指導教官に呆れられたのをちょっと思いだしつつ
隔世の感がある。

等価交換というのは
資本主義のまやかしの原理として
いま
使われているが
(だって等価交換じゃないでしょう。儲けているところがあるのだから)
消費する時は騙された等価交換
自分が創作する時は
やっただけ何かを求める等価交換
悪い風に作動している

これでは
神秘は生まれない
かっちりと
この経済のシステムが支配を強めるだけだ。

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2007/04/26

うごいている

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動いている…
自分が分らないところに漂流している。
いや
漂流というのとは少し異るだろう。
だって
意志は少しあるから。

この感じは何だろう。
見たこともないことや
類型でないことが少しずつ多くなっている。

確かめるより先に
もう少し
動いていたいという渇望もある。

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2007/04/25

はじまりの何かに

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はじまりの何かに供託しているのだ
そんなことをふと思う。

自分の行動や
業のような
性格や週間は
変えよう、変えようと思っても
なかなか変えられない

でも
何かのトリガ−を引かれて
あるいは引いて
ふっと変わることがある

それは
時代の必然だったり
自分の潜在だったりするのだろうが

その
起動の部分
ブ−ツトラップ
の部分に自分が再び立っているのだという
感じがある。

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2007/04/21

自家焙煎珈琲


僕の珈琲は
いろいろな人の
手が入っている。

中でも
一番影響を受けたのが
ギャラリ−・伝の岩田さん。

あって
いきなり焙煎をレクチャ−され
焙煎の道具まで買いにやらされた。

その技がようやく生きるようになった
と思ったカフェ・コスタディ−バ

会いにいったら
伝はアペルになっていて
それも閉まっていた。
アペルの高橋君とも一時期仕事をしようとしていた。

岩田さんどこにいるんだろう。
岩田さん直伝の珈琲は
西瓜糖でも飲めるけど

現代美術に果たした役割はもの凄く大きい。
ちょっと胸がきゅんとなった。


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2007/03/30

シャコンヌ

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一度、接客で嫌な思いをさせられたのに
また
性懲りもなく

合羽橋珈琲に入ろうとして
入口で嫌な感じの応対をされて
(めったに入口から踵を返すことはないのだけれど…)
しかたがなく上野方向へ自転車を飛ばす
稲荷町にほど近いあたりにシャコンヌという
珈琲と紅茶のお店を見つける。

シャコンヌは大好きな映画のタイトル
というかもちろん曲名だけど
入ると誰もいない。
合羽橋珈琲店とは大層な違いだ。

紅茶には追加の白湯もくれるし
何より生のピアノ演奏がある。

いいところが
必ずしも盛況になるとは限らないのだなぁと
つくづく思った。
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2007/03/26

黄昏の憂鬱

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写真には

写っていないけど
この空が迫ってきたとき

昼間なのに
黄昏た

憂鬱な気分というのは
人の心の隙間から入ってくるのだろうと思うけれど

入られるとどうしようもない。

人の修羅は
表向き
好意のような言い方と顔をしている。
そして
意外と自分が自分の修羅に気がついていないときが多い。

もちろん
自分だって
そんな季節をずっとずっと生きてきた。
それがふと
思い出されるほど
深い黄昏
哀しい憂鬱

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2007/03/26

見ることの

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人形は
ある人の鎮魂のために
捧げられている

すべてではないが
かなり動機がそこに向っている

今夜訪れた
人形店の若きマスタ−は
蝋燭を手に
ゆっくりと食卓を回遊していった

人形を見ているその人の
シルエットが
人形の向こう側まで静かに
見つめている
見つめられることで
騒めいている人形の魂が
少し鎮められた
少し
ほんの少しだけ
でもその少しだけそちらに向ったということは
この展示の大きな意味が少し果たされたと思う

ありがとう
片岡翔さん

その間
僕は作家と二人で話しをした
ある聖性の事件を
それは常に騒めきとして存在している
少しでも
引き受けることができたらと思うけれど
それはできない
でも相応しく
散華された紙の華が宙に溶けていくように
少しだけ
少しだけ
何かが引き受けられれば
良いと
思う。

三人がいて
人形がいて
食卓がある
この風景を忘れない


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2007/03/24

形式


社会を把握するのに
あるいは人を把握するのに
まずアニメのキャラを当嵌めて
ということを本気で
あるいは本能的にする人たちを多く見かけるようになった。


現実が把握できない
旧オタクの構造的原型としての
コミュニケ−ション不全
そんなものがベ−スにあるのかもしれない。

理想の男は現実にいない
アニメにはいる
妄想の中に生き
現実を軽くいなしてみようとする

もちろんアニメのキャラは
現実にパッチが当てられない
ずれる
かなりずれる
このずれを持てあまして困っている人たちがいる。
その持てあましている人をみて
僕はそのずれに
時々、茫然としたり飽きれたり
困ったりしている


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2007/03/21

精霊


公式も形式も
もたない
夜のギャラリ−で

蝋燭がともされ
そして消され
闇の中で
息が聞える

そして
蝋燭に灰がまぶされ
祈りがなされるとき
それは個人の行為でありながら
一つの振幅を生み出す

見ている人形作家が
何かを見て取られたとき
それは聖性
スピリチャルというものに近いものが
発生しているのではないだろうか

経済の仕組みに役に立つ
精霊とか
安っぽい占いに使われる
スピリチャルというのではなく
生成された
ここにあるもの。


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2007/03/17

未生の人形

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人形はまだ人形になっていない状態で
存在する
気持ち悪い。
Sはそう言う。
確かに、少し未生な部分を残して
いるからこそ
見る人、買う人が入っていける。
それがドール
だから
ドールは必要な存在

もしかしたら
作る人にも必要な存在。
必要同士がシンクロしている。
作る人と見る人と。

魂が口から出てしまって
目がうつろになっている
ドールは
作家のあるときの
心象を写している

ナハトには
ドールがいる。
必要とされる
ドールがいる。

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2007/03/17

義躰


田岡が久しぶりにふらりと現れた。
壁の十字架がいいねぇ、と、ぽつり。
少しめげそうになったときにいつもこの人はフラリと来る。

イタリアで壁の墓を見て
自分が墓に入るとしたらどんな十字架をつける?
と、スタッフに頼んでひとり、一つ
手作りで作ってもらったの。
手を当ててきた
田岡は珍しく真面目な顔で話しをしている。

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2007/03/16

Candle JUNE

Candle JUNE■キャンドルデコレーション
3月30日[金]/19:00
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パフォーマンスというのとは
少し異るかもしれない

蝋燭に点灯する
その点灯するCandle JUNE
を見るのではなく
点灯というその瞬間を
感じる
同期する

だから
漆黒の闇の空間になったり
微かな空気の音がしたり
蝋燭が全点火されたり
そんな時間のすべてが
今回の存在。

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2007/03/16

サンタマリア

サンタマリア・ノベラ−の
ポプリは

今、伊勢丹でも銀座でも買えるが
ちょっと前には
僕にとって
聖性のある存在だった。

フィレンツェで探し探して
ようやくたどり着いて
奥のカウンタ−に行くと
奥からちょっと雰囲気のある
お婆さんがでてきて
気付薬を教えてくれた
それは本当に気絶しそうに匂いの強いものだった。
酢の匂いがした。
そのカウンタ−を
再び見たのは
レスタ−教授のフィレンツェだった。

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2007/03/15

candle June 2

ナハトの奥に油紙を張ってある
だけの空白の壁は
空の祭壇
床には残像が散らばっている
何ものかの

脇には
水の涸れた聖水鉢

蝋燭の点灯が終了して
誰もいなくなったナハトの
空の祭壇に向って
祈りをしている
灰を額にそして一本残された桃色の蝋燭を
静かに転がす

そこに居合わせたのは
たまたまの三浦悦子
そして私

ナハトはばらばらにされた修道院
あるいはその食堂
どこに手を合わせるのかを過たず
壁の向こうにある
空という
何ものかに祈る
それは希望でもあるかもしれない
何か
もしかしたら
今は我慢していて
時過たず立ち向かう
決意
なのかもしれない。


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2007/03/15

松岡正剛

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ミトコンドリアの
母性遺伝の話しが

ピカリと光り
恋月姫さんの少女、そして先駆、少女を少年に描いた
萩尾望都の少女が
何であるか分ったと
話している最中に
松岡正剛が
ふに落ちる顔をした

対談の醍醐味だ
思考が変わる
思考がジャンプして
予定調和ではないところに
着地する

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2007/03/14

消えていくもの


素晴らしいもの
素敵なものは
永遠に続くような貌を見せて
私たちの前に
突如、顕れる。

浸る
耽る
それはどこか永遠を期待させる

しかし
それは
ふっと消えてなくなる
気づかないうちに…。

今しかないということに
気づかないのだ。

あと
何日かで消えていくものがある。
ふたたびは
会い見舞えない。


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2007/03/13

見えるもの

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父と子と精霊と

見えるものはなんだろう。
分るものはなんだろうか。

今回の
インスタレ−ションの中で
それが
微かに感じられる
見えるところまで
あと少し

目を凝らせば良いのだろうか
それとも

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2007/03/10

三浦悦子展

三浦悦子展が無事オ−プニングした。
夜を彩るビスの会場『ナハト』にみっしりと人形が
入り

ひっそりと息づいている
人形たちの目は
意外にもしっかりと宙を見据えている
それはそれはつぶらな瞳ではあるが。

会場の空間を捉えた構造と
細部とのディテ−ルが
不可思議な共振をしている。

蝋燭の揺らぎのなかで
揺れているのは
むしろ見る方の私たちの何かかもしれない

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2007/03/07

フラッシュ・メモリー


フラッシュ・メモリーというタイトルで
メルマガをやっているけれど

記憶の保持が短くなってきているのは
自分に限らず
あちこちで起きているようなことかもしれない


森村泰昌が何ものかへのレクイエムの
シリーズで
20世紀
モダンというものへのレクイエムをしているが
ついそこにあった
三島由紀夫の割腹とか
その意味とか

たとえば
そのときに
憲法9条の改正や自衛隊派遣は
永遠に起り得ないという
前提での
絶望の実行だと思うが
その根底がまさか
こんなに短い時間で崩れるとは
予想できなかっただろう

三島由紀夫の
風化がそうして起るのだが
しかし
それで良いのか
歴史を現在が書換えるようなことを
続けていって良いのか
それが
森村泰昌の叫び声のような気がする。

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2007/03/05

釜ヶ崎

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レーニンになっている
そしてドラキュラかもしれない
森村泰昌のパフォーマンスは
釜ヶ崎の労働支援センターの庭で
敢行された

日雇いのギャラを狙う
ハイエナ達が
隣接する
三角公演の角々に立っていて
賭場を監視している

憂国
それは様々なレベルでの
おそらく文化ということも含めて

だから森村泰昌は三島由紀夫にも
なったのだろう。

僕は黄昏のなかで
「でわっ!!」
「赤い旗を・・・・・あげてくださいー」「振って下さいー」
と労働者の演出をした。

動かないでと頼んで
静かな1分間が流れた
その空気の中に
僕は自分の黄昏ているなかの
微かな曳航を感じた
これも良いなあ。
いやこれが良いなぁと。。


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2007/03/03

しのぎ


明日
しのぎ が出所する
気をつけた方がいいよ。

ボロを纏った路上生活者を
後ろから襲って
なけなしのお金を奪う
しのき たちが
出所する

気をつけてくださいね。
弱そうな人を後ろから襲いますから
鉄パイプで

後ろからは
やらない
鉄パイプも使わない
弱い人を襲わない
でも
しのぎの連続で生きてきたような気がする

そして
明日からも。

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2007/02/18

天王洲

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天王洲の天空城に
向う途中

地下鉄やモノレ−ルの乗り継いでいるうちに


視界が揺らめきはじめた
入口を求めて彷徨っているのか
出口を探しているのか

チュ−ンのあいが
ぴたっとくる日と

ブレた映像の集積が
像として
存在として
受け止められる日と
交互に
くるようになった。

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2007/02/07

鎌倉物語

『ピンポン』で窪塚が飛び込んだ(ことになっている)江ノ島の橋の
下の海 水が深くなっている。
地続きだった江ノ島がいつのまにか
島になっている。
いつ?

島に汚れた歌舞伎のポスタ−
今日の公演?
しかも友達の京妙と歌女之丞が出演する
楽屋に顔を出して
切符を手配してもらう

突然あらわれたのに
二人とも来るのを知っているような気がする。

歌女之丞、京妙ともに
熱演。
釣り女の歌女之丞。手慣れたもの。
鏡獅子の京妙、可愛い。

終演して
1000人近いお客さんがどっとでる。
ピストン輸送用のバスが劇場に横付けになっていたが
乗れそうもないので
橋を歩きだした。

歩いている僕を
バスがどんどん追い越していく
のに
そのバスには誰も乗っていない。
藤沢行きも
鎌倉行きにも…。


「今日は大変だったね。」「そう一人、人間が交じっていたからね。人間のかっこうのまま見なきゃならなかったからね」
「久しぶりの歌舞伎で、気持ちが高揚した瞬間に素顔をでちゃったりしないか、心配だったよ」

そんな声が聞えてきたような気がした。

僕は振り返らないまま
江ノ島を後にして
ロンディ−ノに向った。
風が強い
魂が飛んでしまいそうに

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2007/02/02

王様ゲ−ム

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リヨンに伝わるお菓子の遊び。
人数に切ってジャンケンして順番に取っていく。
なかに当たりの小さな陶器が入っている。

ジャンケンに勝って
一番にぱっと取ったら当たり。
こんなにゲ−ムに鮮やかに勝ったのは久しぶり。
王冠を付けてちょっとご機嫌。

ハ−ドで
流れによって
身体や意識まで
変化することを許容している
今の僕には
ちょっとしたプレゼントになったかも。

明日も

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2007/01/23

滅びていく

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滅びていく
街は
まだ1000年の時をもつ

そこにいつか
骨を撒いてもらおうと
夢を見る

光の中に
この身が溶ける

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2007/01/21

コアを

ようやく
コアなものを考えたり
触れたりできるようになってきた
ような気がする。

これからだ。

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2007/01/18

畠山直哉展

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久しぶりの鎌倉
畠山直哉展

今から50年前に
ムンクを見た美術館
その時は父親に手を引かれていた


30年前に
何度も通っていた
ミルクホ−ル。
同じ席に通された。
ふっと時間が飛んだ。

30年も一昔。

気がついたら
うたた寝をしていた
ふっと目が醒めたら

あと10年
あり得ないことじゃない。

でも変わらないままの
未来は保障されていない。


駅ビルで
ご飯を食べていたら
となりに
70歳を越えた
同級生達がお葬式の帰り
わいわいと子供のように話している。
店をでたとたん
杖をついて
急に老人になった

百年経ったらまたおいで
その時
その意味分るだろう。

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2007/01/11

誤解しない方が

グランド・オ−プンの『耽美』展は、1300人の入場者が来てくれて
ある意味
大成功に終わった。

誤解しない方が良いのは
そして自分に戒めて思うのは
このことをベ−スにしないということだ。

常に
ゼロから
またはじめるということだ。

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2007/01/02

白い蛇の

実家の裏山を越えていくと
銭洗井弁天にたどりつく
一日の朝早くここに来るのは
30年ぶりぐらいだろうか
何も変わらず…

茶店で甘酒を飲んでいたら
どこから来たの
と、店の人に聞かれて
はぁと・・・になっていたら
白蛇様が御利益を持ってきたのかと思った
と言われた。

白髪が
そう見えたのかもしれない

演技が良いのはこちらかもしれない。
蛇年。
白蛇の千社札をもらったばかりだったし。

銭洗のお金の御利益を受けたことはないけど
何かよいことがあるかもしれない。

そう思おう。

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2006/12/31

心が

傷めた肋骨はだいぶ良くなってきたが
散り散りに
傷めた心は、欠片になってあちこちに散乱している。

散乱した欠片を
集めて形にする
リペア−作業もまた次に起きるだろうことを思うと億劫になる。

何度も繰り返す
愚行は
次第に自分から感情を失わせていく

他人はまるくなった
静かになったと
言ってくれるけれど
感情が動かないということは
最も生きていてつまらないことだ。

怒りに満ちて
とげとげと悪意を放っている
若さを見ると
羨ましいと思う。

暴走したり空回りしたりする
感情が
今は懐かしい。

再び
零次元
望むと望まざると

ゆっくりと
独り
深海のような昏さに身を任せながら
年を越える


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2006/12/29

カ−ドマスタ−

駄目な魂が
口から出てしまうことがあって
別に
カッコつけて生きてきた訳ではないんだけれど
それはさすがにしなかったのに
とろっと
出てしまう。

自我が溶けて
周辺と
交じり合ってしまっているからだろうか

魂が気を許して
自分の体内のような気で
夜や朝やイブの肋骨に
出てきてしまうのかもしれない。

そんなとき
他人は僕のカ−ドを
読みきってしまう。

10年前
ポケモンカ−ドゲ−ムが始った時
僕はカ−ドマスタ−になろうと
努力した

その
まったく逆の状態で
僕は
今、立っている。

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2006/12/20

今日はお茶マスター

今日はお茶マスターをつとめた
ポケモンのメンバ−に
延々お茶をいれつづける。
楽しい。

上海のお茶マスタ−は
日本語がぺらぺらの
もしかして日本人の妖しいおじいさんだった。
若いく−にゃんを使っていた。

なりたいかも…あんな風に
もう枯れてしまっているな……。

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2006/12/18

気分はもうクリスマス


世の中の
気分はもうクリマス

なんだけど
パラボリカ・ビスを立ちあげて
いつもと
かなり異ったクリスマスになりそうだ。

先は見えない
何でアスペクトもなく
新たなことをはじめてしまうのだろう。

いつものことだけど
今度は少し感覚が異る

何が起きるのだろうという
不安に
かなりポジティブな感覚が含まれている

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2006/12/17

人形を人のように 山口小夜子

人形を人のように操ろうという
欲を抑制したとき
 いや山口小夜子にはもともと抑制する欲望はないのかもしれないが
人形は人の意図した生命感でない
人形の生命感を顕にする。

不思議な邂逅だった

山口小夜子がナハトの深い森で見つけた
恋月姫の人形は
白い肌をしていた
そして小夜子が抱き上げて
空にかかげる度に
確信者としての不敵な微笑みを
他人には見せない
かんばせの下で見せる
人形はしだいに小夜子の顔を纏い
透明になっていく

人形に名前は
まだ
ない


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