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大山康晴の晩節 河口俊彦
勝ちから見るのではなく、負けから見る。 しかも美しく。
以前、一時、将棋観戦を趣味にしたことがあった。河口俊彦の文章に触れたのが、きっかけだった。たぶん『覇者の一手』だったと思う。TVも観戦するようになり、米長解説で、羽生の対戦を見ていた時に、あ、ここが勝負手ですね。と米長がが呑気な口調で言うと、どっちですか?と司会が聞く。勝負手であることは分るけれど、どっちが有利かは分らない。どこに打てばいいんですかね? それがすぐに分ったら僕は名人になってますよ、盤で対局している人しか最善手が分らないものです。それを聞いて面白いものだと思った。
一分将棋はほとんど格闘技で、瞬間判断になる。それでも盤に坐っている二人にしか見えない筋があるというのは、不思議なゲームだ。逆に側にいて冷静なほうが見えるのは普通なのだが、そうではないのだと興味をもった。負けたすぐ後に観想戦をするのも驚いた。負けた一手を分析して、こうならよかったとまで相手とともに検討するなんて、とても自分に甘い人間にはできない。
勝負に勝ち、名を残すとのは強いということと少し違う。大山にとって将棋はゲームでもプレイでもなく、勝ちという事実を残す人生なのだ。棋譜を残す棋士も居る。谷川などもおそらくそうだ。羽生もその傾向がある。大山はそれ以上に戦績に対する執念があるのだろう。大山は、その姿勢があってA級で最後まで打ち続けたのだ。盤外でも盤内でも使える手はすべて使って勝つ、それが大山だ。河口俊彦は晩年の、もがくようにして盤に向っている大山康晴を、最大限美しく描いている。それは晩節を棋譜から描くという手法をとっているからだ。
癌にかかっていることすら利用するような駆け引き…。話しは少し異るが、WGPの一時代前のチャンピオン、ドゥーハンは、早く走って勝負を決めるのではなく、勝つように走るのが勝つことだと考えていた。引退を決めた後の最終戦、勝つことの呪縛から逃れたドゥーハンは死ぬほど速く、そしてコーナーをオーバースピードで飛び出してリタイヤした。そのすがすがしい顔が忘れられない。早く走れたんだ。凄い!それでも勝てなくなりそうだから引退する、それがドゥーハン。ちなみに250CCで若くして策士だった原田哲哉が、ロッシになんで早さ競争しないんだと、レース中にウイリーして挑発されたことがある。もちろんレースはそれぞれだ。それが人生観なのだから。
F1のチャンピオンの晩節、プロストもセナもシューマッハも、若手を脅したり牽制したりするという、将棋で言えば晩節を汚した。でもそれは汚したと言えるのかどうかというくらい、繰り返されることだ。プロストがセナを牽制し、セナはシューマッハを怒り…。ロッシは今、晩節にさしかかっているが、ドカティに移籍して挑戦をしているように見える。公式発言からは若手を盤外でどうこうしようということは伝わってこない。ロッシの引退までの走りざまがとても興味ある。さらにちなみにもがきつつけたシューマッハが、2011年9月11日のイタリアグランプリで素晴らしい走りを見せた。元チャンピオンとして。ベッテル、バトン、アロンソ、シューマッハ、ハミルトンという歴代チャンピオンが、連なって走り、シューミは、再三のハミルトンの仕掛けをしのぎ続けた。コーナーで二度進路を変更するという違反行為をそう見せないようにギリギリで使い、FIAの勧告が出そうになると、今度はロス・ブラウンが車線を開けろと無線で指示をして、チームはちゃんとやってますよと、そしてシューマッハにもフェアプレイをしろと、チャンピオンらしくと…示した。シューマッハは二つ目の車線変更を緩くし、ハミルトンはそこ隙間をつかってオーバーテイクした。
不必要なブロックを続けることで、晩節を汚しかけていたシューマッハはこのレース、盛りを過ぎた元チャンピオンとして見事なレースをした。復帰してからこのレースをするためにもがき続けていたと言っても過言ではない。でもこのレースができたのは素晴らしい。プロストにはできなかったことだ。
大山は、晩節に美学を求めるような棋士ではない。河口俊彦は洒脱な文章でそのもがきを美しく記述した。シビアに言えば、でもここにも河口俊彦の文学があり、それゆえにこの本は、将棋の分野よりもより文学の方に近いところにある。しかし河口俊彦がこのように大山康晴の晩年を描いたことで、河口俊彦自身が、大山世代とともに自らを終焉に追い込むことになる。河口俊彦に、今の、羽生以降の将棋の面白さ、棋士の面白さを書くことはできない。
将棋を棋士が書く仕事は、河口俊彦から先崎学へリレーされている。それはあちこちで見て取れる。能條純一の「月下の棋士」は河口俊彦が監修だが、「3月のライオン」では、先崎学が監修をしている。先崎学は勝てない棋士、勝たない棋士を描くのに上手なサゼッションをしている。勝つ、強い、戦略がしっかりしているという棋士の優位だけが棋士ではない、その当たりに先崎は目が行っている。河口の視点は、常に優れたものを見いだそうとしている。大したことのない対戦と思われていた棋譜、大したことのない晩年と思われていた大山康晴の晩節を見事にピックアップしている。
これからは勝てなかった棋譜の美学とか、美しく負ける棋士とか、執念の盤組みが崩壊する瞬間とか…勝負の結果、それも勝ちからものを見るのではなく、同じように負けからも棋士の生き様をポジティブに見る筆致が必要になってくるだろう。
update2011/09/01





