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iPad〈2〉 よげんのしょ

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ともだちの正体は最後のコマまで謎のまま。そこまでにともだちの正体を予感させる伏線もない。『二十世紀少年』が探偵私小説ならまさにかなりのルール違反だ。でも『二十世紀少年』は、ともだちが誰であるかという謎解きの物語ではない。
少年の夢がどうなってしまったかの顛末記だろうし、しかも描かれているのは、記憶がずれたから、今、こんなことになってしまっているという忸怩たる思いだ。謎の主導権を作家が握っていてもしかたがない。ラストに読者のみなさんと駆け抜けた科学で冒険な日々は永遠に…というメッセージがあるけれど、そこに引っかかってはいけない。

少年の夢はかなわないもの。夢は、記憶の中で擦れていって都合の良いものに変わる。あるいは不気味なものに成長する。そして昔、俺もやったもんだと不良を自負するオヤジたちは、夢を捏造する。よげんしょを書き換える。
意識されていない捏造もある。夢や思い出が記憶の中でどうずれてしまっているか…その記憶追尾の軌跡が『二十世紀少年』だ。
最後にケンジが、みなの記憶を修正して謝ったから、コピーのコピーのよげんのしょの最後が実行されなかったのだ。でないとさらにともだちが登場する可能性がある。書き換えられた記憶こそが現実であり、未来を描く悪夢なのだ。
それは今、ロック少年やマンガ少年の夢を食いつぶして二十世紀の終末を形成したオヤジたちの醜い現実である。

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記憶を問うこと、それはi-podやiPadを手渡されてしまったボクたちのある種の宿命なのかもしれない。オヤジになったもの、あるいは二十世紀に少年だったものたちの。
『二十世紀少年』は、少年マンガ、男の物語の顛末である。ここに少女マンガは含まれていない。たった今、10代の少年がiPadやi-podを手渡されれば、アーカイブを満載している世界をそのように認識できる。世界はそのように存在する。
20世紀の半ばからメディアの新興とともに生きてきたボクたちは、そうはいかない。自分の記憶なかにある体験とアーカイブを突き合わせてみないと現実を認識できないのだ。再確認、再構築を余儀なくさせられている。
でないと擦れた記憶の妄想を現実として生きることになる。それは悪夢のような現実なのかもしれない。

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手塚治虫の漫画をリメイクした浦沢直樹の『PLUTO』も記憶の擦れがテーマになっている。浦沢直樹のライフワークは記憶の擦れなのかもしれない。
『鉄腕アトム』は『少年』に連載されたが、月刊誌の『少年』や『冒険王』を買ってもらえたのはお金持ちの子だった。付録の多い、正月号はお年玉で無理をしてかった。甥っ子の家には『少年』のバックナンバーも『鉄腕アトム』の単行本も全部揃っていた。一年に一度、正月に甥の家を訪れると、ボクはマンガの本棚から一時も離れず、食い入るように貪るように読んでいた。
それなのに浦沢の『PLUTO』を読んだとき、アトムはこんなことを描いていたっけと意外に思った。原作の「地上最大のロボット」を読み直すと、昔、本棚の前で身動きすらしないで読んでいたあの時の状況を含めて、コマ一つ一つの感動が甦ってくる。
イメージの擦れはどこで起きたのか。おそらくTVアニメの勧善懲悪の非常に収まりの良いアトム像に原作の感動がオーバーラップされたのかもしれない。原作に感動して、記憶に鮮明なのにアトムはアニメのアトム。この不思議な擦れ。
浦沢直樹はアニメのアトムをクリティカルに見れたんだ。それは世代が少し擦れていることのよるのか、浦沢の目がきっちりマンガ的だったのか。
ボクはただただ、マンガやアニメを享受していたんだ。

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『二十世紀少年』を組み込まれてボクの手にあるiPadを操作しながら思うのは、記憶とアーカイブを付け合わせるために存在するのではないかという印象だ。
再検証するツール。そしてアーカイブ自体も、アトムの連載中のスキャンなのか、一回目の単行本なのか…それによって作品を読むという行為は変化する。
今、iPadによってもう一度、作品そのものに向かうことができるのではないかと思う。作品の印象は、どう作品を売り出すかということで決まってくる。作品そのものを純粋に読むということは稀である。(優れた読み手、目利きはそれができるだろう。子どもの浦沢が「地上最大のロボット」をきちんと読み解けているのは彼がマンガの申し子なんだと思う。

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i-podがデータを余り劣化させないで手許に持ち込んでくる装置だとしたら、iPadは実は、源素材がどうであったか、そして途中こんな風に加工されて、そして今、見るとこうなるという経過を知りながら、作品そのものに再び出会う装置なんだと思う。
だからどのデータをオリジナルにするのか、それをどう編集するのかということが必要なメディアなのだと思う。少なくとも『二十世紀少年』が漫画に対してもっているような自己検証のクリティカルな態度をもっていないと、iPadはとんでもない劣化コピーの装置になってしまうだろう。
編集なしで一番お手軽な文庫本からスキャンしたデータが売りに出されているが、それは違法のスキャンと大して変わらない。もしかしたら愛がないぶん、もっと駄目かもしれない。
メディアは使い方も使う目的も定まらないまま、ふっと目の前に登場する。どうつかいこなすかによって紙の本と共存できたり、紙の本の魅力を強化できたりできるはずのiPadが、単なる劣化コピーと編集なしのだらしない端末になってしまった時、紙もその影響を受けて本当に消滅するだろう。
本は、その価値を分らない意識によって滅ぼされるのだ。

update2010/07/12