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っぽい。 のは避けたい。 っぽい のは嫌だ。『組む。』ミルキィ・イソベ
20代なかごろから40代までずっと踊りの現場にいて、プロなんだからという言葉が出てくる時があるが、それが、究極の危険信号だということに気がついたのはだいぶたってのことだった。プロだからという言葉で押し切る時ほど、危ないことはない。何度か大きな事故を体験して、天井から鏡が墜ちてきたり、火のついたロケットが動かなくなったり、したけれど、本当のプロはプロっていう言葉をはかないで仕事する。はじめた頃の素人の頃の謙虚さをもっている人がプロだ。職人という言葉もそうだ。職人が自ら職人と言う時ほどいかがわしいことはない。押し切る言葉は絶対に何か駄目なものを隠している。余談だけど、政治家のきちんととしっかりも同じような言葉だと思う。何か具体的なものを隠している。
技術は圧倒的に進んで、素人がかなりの技術をあっという間に身につけられるようになった。だけど職人が職人たるゆえんは、その技術の優位性にはない。技術と何かをつなぐところを成立させる、仕上げる技量をもっているところにあるのだ。言うに言われぬ、素人では追いつかないところ。先日、竹本住太夫がドキュメント番組で、義太夫が先に行って待っている、でも義太夫は女房というようなことを言っていた。ディレクターが、相手に合わせるということはしないんですか?と聞いて、住太夫が悪いけどあんたら素人にはわかりまへんとぴしゃりとやっていた。徹底的に大夫に合わせるからこそ、その息を知るからこそ、詰まらないように先に場面があるなどというニュアンスはなかなか言葉にできるものではない。その感じは分らないが、踊りも音を先にやってあとから踊りがついていくという場面があったりするから、そんなことにちょっと近いのかもしれないという位しか近づけないけど、その分らない微妙なうねりのような擦れを作り出すのが、プロで職人だろう。特権とかじゃなくそこでやっているということなんだと思う。
でも普通なら知らないことも、技術や秘密がしだいにオープンになってきて、できないまでも、見えないまでも、分らないまでも、そんなむずかしいニュアンスが、存在するということだけは伝えられる時代になったのではないかと思う。身につけるのは今だなと思う。っぽいというのは、表面が似ていて、そうした分らない、得体のしれないものをもっていないもの、似非のことを言う。技術や情報が進んだ分、似非の精度も上がりなんだかほんものと寸分違わないようなものになってきた。本物の食べ物は、食べ慣れていないと胃が緊張してたくさん食べられなかったり、お腹を壊したりする。やわな似非を食べ続けていると身体がやわになって本物を受けつけなくなってしまうのだ。
『組む。』は、ブックデザイナーのミルキィ・イソベと現場のDTPディレクター紺野慎一が、書いたInDesignの本だ。っぽいのが嫌いな二人とスタッフが作り上げた。っぽいのとそうでない現場魂直球の違いは、説明しづらいが、『組む。』はっぽい要素zeroの本。ミルキィ・イソベは最近、王子製紙のペーパーライブラリーの展示企画もやっているが、まぁ言えば竹尾のっぽさと王子製紙の紙好き本気の差かな。差は、っぽさとそれを排除した侠気のようなものをどう評価し思うかということだけで、別に竹尾をどうこう言っている訳ではない。で、『組む。』の剛毅な本物指向は、本物ということに終わらずに、美しい組版を作るというところに向っていることだ。ここが凄い。なかなか本格とか、本物とかを目指すとその形式で終わってしまうことが多い。この本は、美しい組版を作るという一点に向っている。っぽさの排除とか正しい方法とかは、そのための方法でしかない。
食べ物もそうだけど、蘊蓄なんかより、食べてどう美味しいか、食べて身体が震える快楽にひたれるかしかない。『組む。』も究極は組版の美しさを目指している。美しいものは快楽なのだ。編集者は今やこの快楽の道筋をもっていない。おそらくブックデザイナーがそれを担っていくのだろう。しっかりと、それでいて美しく。ミルキィ・イソベの主張ははっきりと具体的だ。テクニカルな本のように見えて、思い満載の『組む。』。究極の一冊だと思う。
update2010/06/09





