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木下歌舞伎 アゴラ劇場

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「娘道成寺」

木下歌舞伎「娘道成寺」
歌舞伎は国の芸と言われながら松竹が管理をしている。その大歌舞伎は、それ以外に「歌舞伎」と使わせることはない。歌舞伎座の定式幕の色並びを勝手に使うことは「違反」である。極端に言えば認可の必要な劇なのである。
少し前で言えば、「花組芝居」(大好きな篠井英介や深沢敦のいたろころ)とか、歌舞伎をうたう劇団は多い。ちなみに郡司正勝は、当時の歌舞伎の踏襲化、世襲化を嘆いていて、むしろ「花組芝居」のほうがかぶいていると大評価をしていた。それらの劇団は、どこか歌舞伎の型を「もどき」として使うところがあって、歌舞伎あっての歌舞伎もどきである。(もどきという言葉しかないので使っているが、本来もっている否定的な意味を引き算して読んで欲しい)
そうした劇団と木下歌舞伎は一線を画しているように見える。簡単に言うと、型を突き抜けて向こう側に行き、そこでじっと生成を見て、戻ってきて、現代に違うものを立てるという感じだ。
きたまりはコンテンポラリーダンスとして「娘道成寺」を踊っているが、どこか芦川羊子の匂いがしたりする。正確に言うと、芦川羊子の踊りから土方巽の演出と薫陶を引いた、女子のもっている独特の踊り感覚というものの匂いのことだが……。曲は歌舞伎で使っている「娘道成寺」の長唄全曲を使っている。だから歌舞伎での場面が全部存在する。だからどうしたって比較しながら見ることになる。それがもの凄く楽しい。そこで気がついたりする。あ、梅幸さんの鞠つきと歌右衛門さんの鞠つきは、……違うんだ。と、記憶の中で反芻しながら思ったりする。そしてきたまりの鞠つきを見る。その時にふと芦川羊子でてきたりするのだ。
踊りの批評性とはこういうことか……。後から踊るものはこれをしないといけないのだな。何かを批判するのではなく、元に分け入って、作って戻る、そんな感じが大切なんだなと思う。
きたまりは、ダンサーとして振付師として優れた資質をもっている。振りが自在に繰り出されていて、道成寺の曲に合わせてあるので、おそらくきっちり決まっているだろうに、即興のようにも見える。場面場面の内容を、振りが解釈して、その上にダンサーの感覚がのってこちらに向かってくる/時に引き技も見せる。引き技もっているのが、なかなかこしゃくな感じだ。(こしゃく=肯定用語ね)最も驚いたのは、ラストで、「娘道成寺」だからどうしても踊り手のテンションは上がっていくし、上がらないと良いダンサーじゃないし(歌舞伎の踊り手もそうだと思う)なのに、最後にふっとそのテンションの頂上に静寂をもってくる。そして気と体を「脱力」する。で、内的「微笑み」を浮かべるのだ。
あ、今、書いていて思ったけれど、そこもラストの芦川羊子的だ。自分に観客の視線が痛いほどに集ったときに引き込んで微笑むところ。でも違うのはきたまりには静寂があるということだ。芦川には桜の喧騒がある。いずれにしても、きたまりのラスト、ぞくぞくする。良いなぁ。
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